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南インド・チェンナイ市訪問日記(関根康正)

5: 地域別|6 : 南アジア、2007年06月25日

この二月にインドに出かけた。この数年、欧米のインド移民の動向に目を向けていたので、5年ぶりのインドである。超短期の滞在でしたが、それでも世紀をはさんだ社会変化はさらに加速度を増していた。ごく限られた期間だったので広くは見ることはできなかったが、チェンナイ市中の定宿にしている小ホテルの周辺のストリート状況の変化は目撃できた。その覚え書きを簡単に記しておきたいと思う。
以前、他の所に書いたように、サーライ(大通り)からの露天商の追放現象をこの10年間、目撃してきました。露天商はどこに行ったのでしょう。大方はサーライからテル(中規模の通り)に少し入ったあたりの歩道に拠点を移している。あまり入りすぎてはいけない。そういう微妙な奥まりの場所が活気づいていることに、たくましさを感じた。そんなテルの歩道空間に、家族で営む朝夕二回店を出すスナック売りが繁盛していた。これがとても印象的だった。午前、午後の小腹が減ったとき衣をたっぷりつけ油で揚げた野菜揚げが次々と売れていく様は見ていて気持ちいい。店の台のしつらえも、家族間の役割分担、仕事の連係プレイも良くできている。だいぶ流行っているようで、歩く人、自転車で来る人、バイクで来る人、いや車で来る人と、このお店の揚げ物がお目当てという風で大いに頻繁に人だまりができる。この家族は道の反対側まで占拠し、そこで材料を処理し下ごしらえをしている。だから、道を行ったり来たりする。店開きの時はこちら側、店仕舞いしての合間は反対の歩道にいることが多いようだ。彼らは寝泊まりする路上生活者ではない。住まいは別にある。歩道が生業の場所なのだ。
ところで、もう一つの空間的変化は、立体交差で一旦削られたサーライの歩道が、前のより少し狭いが再び再建された。
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<サーライの歩道再建後>
できたばかりで、歩道上にまだ露天商はいない。街路樹も一切無い。今度は文字通り歩道として機能しているようにも見えるが、そうは言い切れない。これからの変化が楽しみ。

写真1~6はサーライに近いテルの歩道の模様

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<写真1:午前の様子(午前10時くらいか、軽い朝食)>

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<写真2:午後の様子(午後5時頃か、野菜の揚げ物)>

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<写真3:昼休みの店仕舞い>

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<写真4:店の反対側の歩道は調理場>

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<写真5:テルの歩道の靴屋さんその1>
大通りサーライの立体交差建設以前だったら、その表通りの歩道にいたはずの靴屋さんも、今はテルに引っ込んで商売している。小さな鍵付きの納屋を作ってしまった。位置は上記の揚げ物屋さんのすぐ隣である。黙々と仕事をしている。夕方店仕舞いして家に帰る。

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<写真6:テルの歩道の靴屋さんその2>

写真7~15は、2007年2月の記録として示す。

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<写真7:ムスリム女性の服装>
ブルカー着用の若い女性が増えている。タミルナードゥ州の調査を始めた1980年代から90年代前半まではほとんど見かけなかった。90年代後半から徐々に目にする頻度が高まっている。経済自由化の影響で経済成長に入っているインドであるから、北インドからの人々も以前より南インドの主要都市にも来るチャンスが増えているのだろう。それも影響している。

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<写真8:若い女性の服装>
若い女性の北インド化は、この10年、特に顕著。90年代前半までジーパンをはく若い女の子はいなかった。パジャマも非常に少なかった。

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<写真9:サーライを走る公共バス>
プライベイトの乗り物はどんどん向上しているのに、変わらぬ公共バス。鉄板の歪み、おおざっぱな作りが特徴。そろそろいい加減に、モデルチェンジしたらと思うくらいバスは旧態依然としている。なぜでしょうか? ボートバンクにならないから? なると思うが。

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<写真10:少し高級なアパートメント:とにかく外装が綺麗になった>

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<写真11:八百屋の店先の生ジュース販売 これも新しい現象 清潔感が増している>

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<写真12:90年代後半にシンガポールの清掃会社に学んで始まったチェンナイ・クリーン作戦は今もどうにか続いているようだが、ぴかぴかしていた可動式ゴミ入れもずいぶん古くなってきた>

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<写真13:テルの歩道寺院 オートリキシャのスタンドとされる 5年前はこの看板はなかった>

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<写真14:テルの歩道の路上生活者 5年前はここには路上生活者はいなかった>

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<写真15:ホテルの窓から南東を望む 新しい目を引く景観となった高層高級アパートメント>

Posted by 管理者 Date:2007年06月25日 14:30| | コメント: 4 | トラックバック: 0

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肉まんの奪い合い(朝日由実子)

5 : 東南アジア|5: 地域別、2007年05月03日

昨年日本でも公開された日中韓の合作映画“Promise”の冒頭に、戦乱の世で孤児たちがひとつの饅頭をめぐって、争い、騙しあう場面があった。それ自体は、ファンタジーなのだが、これを見るとかつて私の目の前で起きたひとつの肉まんをめぐる奪い合いを思い出す。

修士の頃、自費で調査をしていて食費の節約に余念がなかった(もちろん今も節約は大事)。同じく調査仲間の友人が、昼は肉まんを食べるともっと節約できるという。なるほど、プノンペンの大衆的なレストランの経営者には中国系が多く、メニューに載っているもののほかに、肉まんなどの軽食も置いてあることがある。私が時々通う比較的衛生的な中央市場近くのレストランも、中国系の経営で、お肉や生姜、卵などいろいろな具の入った大きな肉まんを1000リエル(約30円)位で出していた。注文するとお皿の上に載せて出てくるので、これを柄の長いスプーンで切り崩しながら食べる。
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プノンペンのきれいめ大衆食堂

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(肉まんの写真がないので…)定番メニューのコンデンス・ミルク入りのアイス・コーヒー(2,000R)

これを食べていれば、節約節約…と思い、取らぬ狸の皮算用をしていると、ふと柱の隅からの熱い視線を感じる。やせた子どもがじーっと私の肉まんを見ている。食べるごとに子どもの目線が動くので、いたたまれなくなり、半分そーっとあげることにした。経営者の中国系のおばさんは、快活できりもり上手なのだが、店が通行量の多い道路の角地にあり、2面とも壁が無いオープンなつくりであることもあって、ひっきりなしに物乞いや、靴磨き、物売りなどが店内に入ってくるので、こうした人々が客にしつこく寄り付かぬよう、時に彼らに一喝を浴びせ、常に店と歩道との境界に目を光らせている。

差し出した肉まんを、おばさんに見つかることなく、その子は店の外に持っていくことができた。しかし、店周辺の木陰(おそらく彼の定位置)に戻ると、もう一人やせた男の子がいて肉まんのかけらを見つけると、最初は分けてくれるよう頼んでいたらしいが、次第にもみあいになって、つかみ合いのけんかになってしまった。2人とも半泣き状態である。こうなるとあともう半分ももう一人の子にあげないとどうにもこうにも収まりがつきそうにない。そうして、一口二口しか食べぬうちに、わたしの肉まんはなくなってしまった。

節約のはずが、肉まんごとなくなってしまった。それに2人の争いを見てるうちに、お金の左程ないわたしの肉まんを、お腹をすかせた一人の子どもにあげる、だけのことでは区切りにならないのだな、とあらためて考えてしまった。最初は、肉まんをあげたひとりの子しか見えていなかったが、レストランの境界の向こう-路上には、その子のような子どもがさらに無数にいて、きっとそのまた親や兄弟もお腹をすかせている可能性があるわけであって・・・。その先に延々と続いているだろう何かを考えると目が回りそうになってしまった。それは、その何かが決してわたしと無関係なのではなく、むしろ私とその子どもをつなぎ、さらに外側の世界へとつながる連綿としているものであることに呆然としたのである。

最近では、おばさんの一喝が効いているのか、それとも別の理由があるのか、残り物をくださいと話しかけてくる子どもの姿はあまり見かけない。

Posted by 管理者 Date:2007年05月03日 03:27| | コメント: 4 | トラックバック: 0

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Conquistador輩出の地-グアダルーペ-(内藤順子)

5: 地域別|8 : ヨーロッパ、2007年04月24日

スペイン・エストレマドゥーラ(Extremadura)地方、エルナン・コルテスをはじめとする
”Conquistador(定訳は「征服者」)”を輩出した地域である。マドリッドから南西方向へバスで2,3時間ゆくと、一面拡がっていたオリーブ畑が一変して険しい岩山と寒々しい針葉樹の景色になる。肥沃さとは無縁の、農業には適さず海からも遠い、そうした条件がコンキスタドールをうみだし外へ向かわせたと言われている。

エストレマドゥーラのほぼ中央にグアダルーペという町がある。人口2700くらいの小さなところだがReal Monasterio de Santa Maria de Guadalupe=聖母グアダルーペ王立修道院がある。聖母グアダルーペは、スペインの守護聖母で黒色の肌をしている。聖母信仰のさかんなスペインではかなり人気のある聖母で1993年に、修道院の建物とともにユネスコの世界遺産に登録された。

マドリッドからバスで4時間しかきてないのにびっくりするほど田舎町だ。
そのど真ん中に聳えるのがこの王立修道院である。カトリックの底力を感じる立派さだ。というよりカトリック両王の息づかいがまだのこるような迫力と荘厳さ。修道院はヘロニモ修道会が母体で、尼さんはおらず、僧ばっかり。ゴシック様式の石造りの建物はリアル「薔薇の名前」な雰囲気で、中世っぷりに浸れる。

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スペインのグアダルーペの聖母

しかし一般的に、世界で知られているグアダルーペといえば、鶴見俊輔の著作にもあるとおり、メキシコの褐色の肌を持つグアダルーペの聖母である。とはいえ、宗主国的にはスペインが先だというだろうし、メキシコ史学でも美術史でも「シンクレティズム」で説明されている。メキシコ先住民(アステカ)の大地母神と聖母マリアの融合であり、その際メキシコ人が親近感を持ちやすいであろう「褐色の肌」をしたマリアにすることで爆発的布教に成功したのだと。それ以上の解釈はないし、必要もなかっただろう。

P1030324.JPGメキシコのグアダルーペの聖母

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メキシコ・シティのバシリカ(グアダルーペ寺院)境内で膝行参拝する親子

メキシコで道のあちこち、店の中やタイル装飾などいたるところで見かけるグアダルーペの聖母像。シンクレティズムという分析概念は、歴史的にそれがどう解釈されるかという説明をした気分にはさせると思う。しかし今を生きる聖母信仰について、熱心に膝行するメキシコの人びとについてとらえたものではない。むしろ植民地拡大時代の宗主国の意図やその構造を永遠におしつけているだけのものになる。時間の流れの中で、旧宗主国と旧植民地のありかたはあたりまえだが変わっている。時代がくだったいま、グアダルーペの聖母信仰をあらためて考えてみることは、旧宗主国と旧植民地の計り知れない関係を再認識する手だてになるようにも思えた。

Posted by JN Date:2007年04月24日 02:18| | コメント: 4 | トラックバック: 0

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路上を歩く人(路上の掟):物乞いの形態と寄付額の相場 (朝日由実子)

5 : 東南アジア|5: 地域別、2007年03月26日

プノンペンで路上を歩く人は、「外国人か、外国帰りのカンボジア人、それとも交通手段を利用することの出来ない貧しい人か」、とよく言われる。年間を通じて暑いこの国で、猛暑の中、歩くのはあまり好まれない。かといってバスや電車といった公共の交通機関も存在せず、基本的に皆、バイクやシクロ(人力車)で自宅と目的地の間を行き来する。

 そんな声に反して路上をゆっくりと歩いてみると、多くの物乞いを目にする。彼らも暑い中、薄い草履を履いて一生懸命動き回っている。もっとも市場や食堂、あるいは両替所やバス停、寺院の周辺など狙いを定めてあまり動かない人もいると思われるが、あまり一箇所に留まり続けていると、近くの商店主や家主から嫌がられてしまう。その場からとにかく立ち退いてもらいたいといった形でお金が渡される様子を見ることも少なくない。
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(プノンペン中心街の様子)

何日か観察してみると、次第に物乞い(Neak so:m Tiәn; 寄付を請う人)にはいくつかの形態が存在するように思われた。まず物乞いをする人々の大半は、お年寄りで男性も女性もいるが、若干高齢女性の物乞いの方が多い気がする。その他、大雑把に分類してみると、子どもの物乞い、赤ちゃんを連れた比較的若い女性の物乞い、盲目の男性でトローと呼ばれる胡弓に似た楽器を演奏し、連れの男の子(手太鼓を持っている場合もある)がお金を受け取る2人組み、さらに足の不自由な男性あるいは女性で、手に足用サンダルをはめて這って歩いている物乞いの人などがいる。基本的には、皆「ソーム・ロイ」(お金を下さい)と繰り返し言い、手を合わせてお願いをするポーズ(ソンペアッ)を取りながら近づいてくる。

さらに見ているとプノンペンの人々は、こうした物乞いに対し、若者でも気が向いたときには、ポケットやカバンからお財布を取り出し、お金を渡している。その額は、基本的には、100リエル~500リエル(現在、1USドル=約4,050リエル)と当地の人にとっても気軽な額である。この額であれば、1日の生活費(1日1ドル程度は最低限必要)を満たすためには、数多くの人を回らねばならないため、物乞いを生業としてやることのある程度のつらさと努力を促す、寄付者にとって納得できる額のようである。額は少ないが、逆にコンスタントに関係を成り立たせたり、なるべく多くの人に寄付したりすることの出来る微妙なバランスの採れた額とも言える。

 一方で、短期間滞在する外国人旅行者は、一気に1USドルを寄付する人も少なくない(短期滞在者は、カンボジアの現地通貨に換金する必要があまりないため、リエルを持っていない可能性もある)。1USドルは、一般の物乞いにとっては衝撃的な額であるが、外国人旅行客でも余程のお金持ちでない限りは、この額を常に物乞いに渡すのは稀で(それほど街中、特に観光スポットには、物乞いが数多くいる)、また額があまりに大きいため、周囲の物乞いが集まり、寄付者は囲まれたことにより恐怖感を抱き、その後物乞いとの関係を成り立たせることが難しくなってしまったたりする。

また、近年の「援助」から「自立」路線への開発をめぐる言説の変化の影響もあってか、物乞いに寄付するのは、「相手の自立を疎外する良くないことだ」という理由により、基本的に出会った全ての物乞いに対し、直接寄付することは敢えてしないとする方針を持っている外国人観光客も増えているように思われる。一方で、「安心して寄付できる」孤児院が観光施設化しているとの新聞記事も見られるようになった(”Orphanage tourism: a questionable industry” Phnom Penh Post, March 9-22, 2007)。路上を直接介するよりも、近代的な機関に寄付した方が、有効に活用される場合もあろうが、路上生活者のシェルターや、職業訓練を目指すNGOが数多くあっても、未だに物乞いは存在するので、この問題との関係は、そう簡単ではないだろう。

 外国人旅行客にとっては、すべての物乞いは、同じようにお金を請うてくる人々として同一視されがちであるが、カンボジア人の感覚では、高齢者の物乞いを中心にして、やむにやまれず物乞いをしている人を見極めようとし、ある程度優遇しているように見受けられるなど、様々な場面、人間像にかんして慣習化された考え方と行動が見られる。

 カンボジアは、現在人口約1400万人で、東南アジア地域でも小国と言われる。首都プノンペンは、カンボジア第一の都市であり、メコン河とトンレサップ河が交差する場所に位置する。人口は、約200万人と言われている。

Posted by JN Date:2007年03月26日 03:44| | コメント: 3 | トラックバック: 0

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首都交通網革命(内藤順子)

3 : ラテンアメリカ|5: 地域別、2007年03月12日

2007年2月、トランサンチャゴなる首都交通網の大改革がはじまった。
個別運営会社だった路線バスの整備と地下鉄の統合、運転手の定額給与制、バス停留所の固定、
黒煙を吐くバスを減らしての公害対策、ICカード支払制・・・「近代システム化」を図るということらしい。

いままでのバスは、いかに多く走って沢山の人を乗せるかが勝負みたいなところがあったので、
開け放しのドア、豪快な走りっぷりが醍醐味で、ひっきりなしに乗っては降りていく物売りや
folksong歌手や大道芸人たちがいた。それに、バス停じゃないところでも、訴えるように見つめればバスに乗せてくれたし、○○の近くで降りたいの、と運転手に言っておけばバス停を無視して降ろしてくれた。 でも近代化はそういう甘えを許してはくれないし、芸人たちのスペースもなくなった。ドアはきちんと閉じられ、行儀良く決められた速度で走っている。

これまでの路線を全取り替えして、バス停の場所が変わったため、人びとは路線図を手に右往左往している。また、バスの数が減らされたうえ、稼働時間も短くなった。これだけでもすごいこと。東京じゃ必要もないけれど、考えられないことだ。 少なくとも7000台のバスが減らされ、市郊外の空き地にその屍がある。少なくとも7000人の運転手が失業したのだ。その中にはローンでバス車体を購入して、これからがんがん走らせて稼いでいこうとしていた人たちもいた。ローンだけが残った。この交通大革命はつい2年前に計画が急浮上して、ちらほら名前を聞くかなという程度の浸透のまま実施されたのである。バスの台数が減ってなかなか来ないためバス停は長蛇の列ができ、きたバスは満員で人が溢れ落ち、既に重大な交通事故が起こって死者も出てた。窮屈すぎる車内では子どもがひとり窒息死した。DSCF1084.JPG
地下鉄のEscuela Militar駅。帰宅ラッシュ時間の改札。ホームに人が溢れてしまうため、改札で行列をつくっている。

こうした事情のため、マイカーを買う人が2割も増えたという統計が出た。しかしそのせいで道路は大渋滞、結局市民全体が交通混乱に巻き込まれている。以前なら1時間で行けたところに3時間かかることもある。みんなそれを見越して平均2時間早く出勤する有様。バスがあてにならないから地下鉄に乗る人が増え、地下鉄は東京さながらの混雑ぶりを呈している。当然出勤遅刻が続出、テレビのニュースで泣いている女性がいた。
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2007年3月11日放送のCanal7 Chile

細木数子はいったこの女性は4時間待ってもバスに乗れず、遅刻で解雇されちゃうかもということで泣いた。近くにいた警官が携帯で女性の勤め先に連絡、事情を話して事なきを得た。4時間は待ちすぎでしょ、と突っ込みたいところだが、こういうことが起きている。

3月にはいっていわゆる日本で言う新学期がはじまり、ますます問題が表面化してくる模様。こんな大改革がほんとに行われるなんてすごすぎてちょっと目が離せない。 落ち着けばよいシステムという評価になっていくはずだと誰もが信じているが・・・。わたしは「近代化」を目の当たりにして興奮気味である。

Posted by JN Date:2007年03月12日 18:51| | コメント: 1219 | トラックバック: 0

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構えない交流(内藤順子)

3 : ラテンアメリカ|5: 地域別、2006年08月16日

今日のサンチャゴは冷え込みました。
「ストーブに当たりながらアイスを食べる」という行為を無性に実現したくなったわたしは
近くのスーパーで真剣にアイスクリームを選んでいました。

ヴィエネッタという日本でもお目にかかったことのあるケーキ状にアイスが織りなさたもの、
月曜セールで日本円にして200円。
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これだな。と思ってそれをカゴにいれようと思ったとき
「ねえってば」と肩をたたかれたのでそちらを見たら、見知らぬ子連れの女性がいました。
ヴィエネッタに夢中だったわたしは気づかなかったのですが、ちょっと前からいた模様です。
「子どもにアイスを買ってあげたいの、小銭を頂戴」といわれました。

そう言ってくる人みんなにあげてるときりがないので一度は断ったものの、
わたしのヴィエネッタに子どもの目が釘付けになっている・・・ばつが悪いとはこのこと。
ちょうどポケットに小銭があったので渡しました。

スーパーを出て、その出来事のことをぼんやり考え、
どちらかというと悲しい気分でした。現実が。
そこに、さっきの親子がいて、確かに子どもがアイスを持っていて、
母親は通りすがりの男性にやはり「小銭を頂戴」と言っていました。
母親はわたしに気づき、満面の笑顔で「ありがとう」と。
わたしが、いいの。というやいなや、「食べるものもないの」と引き続き甘える母親。
わたしはその発言を無視して、単純な興味から、「どっからきてるの?」と聞きました。
居住地域のはっきりしているこの国では、彼らは遠くから来ているはずで
バス代がかかるだろうになあ、というたんなる疑問です。

彼女は「えっ?」という顔をしたあと、不意の質問に答えてくれました。
子どもが「あなたはどこからきたの?韓国?中国?」とわたしに尋ねました。
わたしが「日本」と答えると、母親が「はじめて話した日本人よ」と。
それじゃね、と角を曲がって違う方向へいったわたしに背後から
「ねえほんとにありがとう、話せてうれしかった」と大声でいわれて照れくさかったです。

わたしたちはもっと考えるべきことがあると思いました。
構えない交流、人が文脈から自由になったときにみえるものを大事にしなければならないと。

Posted by JN Date:2006年08月16日 03:48| | コメント: 5 | トラックバック: 0

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