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『民博通信』ストリートの人類学特集へのコメント・野村雅一

4: 自由討論、2007年07月16日

『民博通信』116号特集「ストリートの人類学」へのコメント

この特集はびっくりするほどよくできている。この「ストリートの人類学」研究会の前身である「<都市的なるもの>とは何か?」研究会との連続性もはっきりしており、月刊『みんぱく』2004年8月号の特集「ストリートのいま」と合わせて読むと、これまでこのストリート研究会がなにをやってきたか、だいたいわかるようにまとめられている。

●死とホームレス
今回の特集の論文とエッセイは、それぞれとてもおもしろい。しかしなんと言っても巻頭の関根論文が説得力があって、対象との「距離感」が絶妙だ。わけのわからないところがあるところも、またおもしろい。朝、散歩にでかけていったら、公園に「意地悪ベンチ」と関根さんが名付けているものがあるという話から始まる。そうしたものが存在することに驚いた。それは、ホームレスがそこに寝られないように、排除するためにわざわざ設けられたものらしい。そして、関根さんはホームレスを見てかれらは「どこへ向かって歩いているのか」と考える。それは「死に向かって」であり「自分もそこへ向かっていると悟らされる」と思考は進む。そのようなことを考えるのか、という意外性に加え、絶対的に空間を超えて死に思考がとんでゆくことに、すごさを感じた。それに啓発されてふと、死の後のことを考えた。
別のプロジェクトで私が現在取り組んでいるエイジングへの関心からいうと、人は社会のなかに生まれて、社会のなかで死んでいくから必ず死後があるのだが、ホームレスはそもそも社会から消えているから死後がないのであろうか。人の死とは何をもたらすのだろうか。人は死んでも、生者の記憶に残っている限り完全に消滅はしない。しかし、最近の日本で社会が人の死をどのように受け入れるのか考えてみると、死者と生者の関係がずいぶん変ってきているようだ。このごろ「直葬」という、お通夜も葬儀も告別式もせずに、直接火葬場に送るスタイルが増えているが、もしかするとホームレスはすべて直葬なのだろうか。はじめから消えているわけだから。こうして、「死に向かって」という発想から、いろいろと考えさせられることがある。ホームレスの立場から死を考えるということは、言い方が不謹慎であるが、興味深い、というか大事なことなのではないか。
死との関連から、空間的な問題として街の死、ストリートの死ということを考えた。それは廃墟であると思う。世界の都市のなかでは廃墟が生きている。ローマなどはさまざまな時代の廃墟の重なりの上にできあがっている。それがいま、廃墟も排除されようとしている。意地悪ベンチをつくるような人には、廃墟は都合が悪いところなのだろう。写真(特集の関根論文中)を見ても、廃墟じみたところにいる靴磨きの人たちの居場所が整序されようとしている。生産と消費、家庭と公共、男と女、子供と大人といったカテゴリーの区別が融解しはじめてすでに久しい。分化の論理によって構築されてきた西欧近代の限界といってよいのかもしれない。
ストリートとはという問いかけは、朝の路上についての関根論文からはじまる。文字通り路上という意味のストリートから次には、比喩的な現象の問題として把握されていく。それは小田論文で言及される騒乱の場としてのストリート、そこで起こる現象をモダニティと結びつける比喩としてのストリート(「ストリートを取り戻す」)という論点に移り、さらに「トランスナショナル」という問題へと展開していくわけだ。

●ストリートの場所性
そこでひとつだけいっておきたいのは、「ローカル」という問題だ。ストリートとは比喩にしても空間にしても道なのだが、それはいつも匿名で、固有な場所性はほとんど問題にしてきていなかった。(「都市の無意識」についての南氏の発表は例外。ホームページの要旨参照)ストリートの研究会でも、世界各地の話が扱われてきた。それらはたまたまそこをフィールドにしていて、どこであってもいい現象として考えられている。根本的な問題や現象をとらえるために、当該の場所が匿名にされることが、現在の人類学でも大半を占めている。そうした場合の「ローカルな場所」というのは、「グローバルのなかのローカルな場所」といっても、どこでもない、概念になってしまっている。しかし、ローカルとは本来は名前がある特定の場所である。固有性、歴史性、一回性の、その場でしかないものということが大事なのではないか。たしかにフィールドの話をしていても、一般論にしてしまうのでは、場所の固有性の、かけがえのなさはどこへいってしまうのか。人間におきかえるなら、「その人」だからこそというのはどうなってしまうのか。
今春、アメリカの人類学者テオドル・ベスターの『築地』という本が出た。本としては構成も章立ても破綻しているようで、筋道だっていない。ところが非常におもしろい。この本を読んで啓発されたのが、場所の問題だ。著者がとくに強調するのが、商取引における場所の重要性。築地は世界中から魚があつめられる水産業の中心であり、世界最大の、まさにトランスナショナルなグローバルなマーケットなのだ。ベスターは、これが築地という場所でずっと営まれていることが肝心で、移転したらまったく別のものになるであろうという。英語のマーケットは、マーケットとマーケットプレイス、日本語でいうと「しじょう」と「いちば」とふたつに区別できる意味があるが、築地の場合はそれらふたつは区別できず分かちがたいという。築地はグローバルな、為替相場とおなじスポット市場だ。しかし、このマーケットとしての築地(しじょう)を、物理的な築地という場所(いちば)と切り離して考えることはできない。空間や場所には文化的プロセスをとおして意味というものが付着している。これは金融市場でも同じである。モノが動かないわけだからどこにあってもいいようなものだが、ニューヨークのウォール街が絶対的な力を持ち、そこでなければならない。日本の古本のネット通販でも、取引相手が神田になっていると信用できそうに思う。それは、その場所の固有性があるからだろう。トランスナショナルということが盛んにいわれているが、この本では、トランスナショナルというテーマのなかにおけるローカルの重要性について指摘されている。「場所は、流動的なプロセスの真っ只中に、空間的(そして社会的)固定性という知覚を作り出すのである」(『築地』テオドル・ベスター著,木楽舎,2007年,58頁)と。すべての場所に、すべての空間にあてはまるわけではないが、名前のある場所として考えていくのも大事だと思う。これまで比喩的現象としてのストリートについてもずっと一般的な問題として扱ってきているので、個別の場所に徹底的にこだわる立場があってもよいのではないかとおもった。文字どおりの道とか路上のストリートと、比喩や現象としての広義のストリートとを結びつけるもの、それが場所性なのではないかと考えた。
 近森論文に出てくるベンヤミンのパサージュ論でいえば、パサージュにも本来場所性がある。似たようなものはヨーロッパのあちこちにあるが、それぞれのパサージュには名前があって、アイデンティティ、伝統、人間関係がそこに付着している。そうしたことにこだわると、もうひとつの見方ができるのではないだろうか。場所へのこだわりを取っ払ってしまうと、わかりやすいものになってしまう。そもそも固有性とはわかりにくいものであり、だからこそ『築地』の著者ベスターも長年築地にこだわってきたのだろう。場所というのもわからないものなのだ。人類学の魅力とは、何かわからない「異物」に取り組んでいくなかで、その異物をくぐり抜けて一般的なところへ出て行くことなのではないか。それが人類学の方法であり課題だと思う。今日トランスナショナルの現象はたくさんあるわけだが、すべてがトランスナショナルなわけではない。トランスナショナルの地平まで出かけてそれを論じるためには、その前提となるナショナルやローカルをくぐり抜けていく必要がある。その点からいうと、加藤論文ではフーコーの規律社会からさらに先にいくドゥルーズの管理型社会というセキュリティについて言及している。監視カメラはどこにでもあるが、しかし場所によって付け方がいろいろとあるという、さすが地理学者は場所をおさえるものなのだと勉強になった。トランスナショナルも、こうしたところから考え直さなければならないのではないか。

●ストリートと「マナー化」
規律社会や管理社会ということから、最近もうひとつ関心を持っているのは「マナー化」ということだ。近ごろ東京あたりでは高校生のマナーが悪くなったとかいわれ、マナーが問題になっているらしい。それについてどう思うか、という日経新聞の取材を受けた。そのときに、そういえば近ごろは、マナーとはいうが、作法とはいわないなと思った。
ニュースでのマナー問題はじつは2007年の5月9日の北海道新聞の報道からはじまった。旭川からの支線で朝の通学時間に、高校生が126人積み残されてしまい、次の電車は1時間後とかになるからタクシーに分乗させたという出来事である。これは高校生が詰めて乗らないからいけないと、JRから校長にマナー指導の要望が出された。そうすると、たしかに高校生のマナーは悪いという投書が寄せられてきて、毎日新聞や読売新聞でも続報が掲載されたり、関東でも同様だといった騒ぎになった。ところがこの北海道新聞のはじめの報道では、列車は車両1両しかないうえに、この日はいつもより定員が10人少ない車両を使っていた事情が書かれていなかった。で、東京の人はこの記事を読んで高校生のマナーを問題にした。東京はどこにいっても人がいっぱいで、それで満員電車ならまだ仕方ないが、これは北海道の真ん中の話。北海道の原野のなかでぎゅうぎゅう詰めの電車に乗るなんて、ばかげている。電車を増便するのにお金がかかるのなら、北海道が一部負担するなりすべきではないのか。条件をととのえないで当事者である高校生の責任にしようとする。これは大人が、あるいは社会が悪い。フーコーのいう管理は外部からだが、いまマナー化でそれをもっと内面化することを求めている。これが自主的な自己管理という形で、ストリートのいろいろなところに出てきているように思う。日本の都会の満員電車は根本的に考えなければいけないことだと思う。満員電車は人間をモノとしてみるから詰め込めることができるわけで、知り合いだったら無理だろう。満員電車は人をモノ扱いすることで成り立っている。たぶん痴漢というのもそれと関連している。作法や礼儀というのは、顔が見える関係でお互いがわかったうえでの配慮の関係である。しかしマナーというのは顔の見えない関係が前提の、人間関係をどう取り繕うかということであろう。満員電車というこの日本独特の光景。そのなかでまさにポストモダンな新しい規律が求められている。それが都会ならまだしも、田舎の高校生に。彼らは互いに名前も顔も知っている間柄で車両1両に押し込められているそのしんどさに怒りを感じるのだ。意地悪ベンチや満員電車といった日本の都市の風景をうけて、何がどうなろうとしているのか見定めていきたい。
(野村雅一・京都外国語大学)
民博共同研究「ストリートの人類学」
2007年7月2日研究会2日目10時より 於:国立民族学博物館第3セミナー室で口頭発表したものです

Posted by 管理者 Date:2007年07月16日 17:31| | コメント: 9 | トラックバック: 0

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民博共同研究の討論
(特集「ストリートの人類学『民博通信』116号をめぐって)

4: 自由討論、2007年05月11日

投稿者:関根康正
この「民博共同研究の討論」というカテゴリーで、基本的にはこれまで積み重ねてきた研究会の内容を土台にしながら、直近の手がかりとしてはこの3月に刊行された『民博通信』116号の特集「ストリートの人類学」(および野村先生の編集で編まれた共同研究会が開始された2004年の夏に刊行された『月刊みんぱく』8月号)を参照していただき、「ストリートの人類学」の現時点での総括に向けて少しずつ討論していきたいと思います。しかしながら、ここではまとめの思考を求めるというより、自由な発想を展開していただけたらいいかと存じます。 ご参考までに、最近民博に提出した2006年度共同研究「ストリートの人類学」の年次報告書「研究成果の概要」ファイルをご覧いただけます。 ダウンロードはこちらをクリック→「2006年度研究成果概要ファイル」
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Posted by 管理者 Date:2007年05月11日 23:45| | コメント: 15 | トラックバック: 0

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