![]()
![]()

5 : 東南アジア|5: 地域別、2007年05月03日
昨年日本でも公開された日中韓の合作映画“Promise”の冒頭に、戦乱の世で孤児たちがひとつの饅頭をめぐって、争い、騙しあう場面があった。それ自体は、ファンタジーなのだが、これを見るとかつて私の目の前で起きたひとつの肉まんをめぐる奪い合いを思い出す。
修士の頃、自費で調査をしていて食費の節約に余念がなかった(もちろん今も節約は大事)。同じく調査仲間の友人が、昼は肉まんを食べるともっと節約できるという。なるほど、プノンペンの大衆的なレストランの経営者には中国系が多く、メニューに載っているもののほかに、肉まんなどの軽食も置いてあることがある。私が時々通う比較的衛生的な中央市場近くのレストランも、中国系の経営で、お肉や生姜、卵などいろいろな具の入った大きな肉まんを1000リエル(約30円)位で出していた。注文するとお皿の上に載せて出てくるので、これを柄の長いスプーンで切り崩しながら食べる。
プノンペンのきれいめ大衆食堂
(肉まんの写真がないので…)定番メニューのコンデンス・ミルク入りのアイス・コーヒー(2,000R)
これを食べていれば、節約節約…と思い、取らぬ狸の皮算用をしていると、ふと柱の隅からの熱い視線を感じる。やせた子どもがじーっと私の肉まんを見ている。食べるごとに子どもの目線が動くので、いたたまれなくなり、半分そーっとあげることにした。経営者の中国系のおばさんは、快活できりもり上手なのだが、店が通行量の多い道路の角地にあり、2面とも壁が無いオープンなつくりであることもあって、ひっきりなしに物乞いや、靴磨き、物売りなどが店内に入ってくるので、こうした人々が客にしつこく寄り付かぬよう、時に彼らに一喝を浴びせ、常に店と歩道との境界に目を光らせている。
差し出した肉まんを、おばさんに見つかることなく、その子は店の外に持っていくことができた。しかし、店周辺の木陰(おそらく彼の定位置)に戻ると、もう一人やせた男の子がいて肉まんのかけらを見つけると、最初は分けてくれるよう頼んでいたらしいが、次第にもみあいになって、つかみ合いのけんかになってしまった。2人とも半泣き状態である。こうなるとあともう半分ももう一人の子にあげないとどうにもこうにも収まりがつきそうにない。そうして、一口二口しか食べぬうちに、わたしの肉まんはなくなってしまった。
節約のはずが、肉まんごとなくなってしまった。それに2人の争いを見てるうちに、お金の左程ないわたしの肉まんを、お腹をすかせた一人の子どもにあげる、だけのことでは区切りにならないのだな、とあらためて考えてしまった。最初は、肉まんをあげたひとりの子しか見えていなかったが、レストランの境界の向こう-路上には、その子のような子どもがさらに無数にいて、きっとそのまた親や兄弟もお腹をすかせている可能性があるわけであって・・・。その先に延々と続いているだろう何かを考えると目が回りそうになってしまった。それは、その何かが決してわたしと無関係なのではなく、むしろ私とその子どもをつなぎ、さらに外側の世界へとつながる連綿としているものであることに呆然としたのである。
最近では、おばさんの一喝が効いているのか、それとも別の理由があるのか、残り物をくださいと話しかけてくる子どもの姿はあまり見かけない。
Posted by 管理者 Date:2007年05月03日 03:27|パーマリンク
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.transnationalstreet.jp/mt/mt-tb.cgi/17
@Markus I get your drift on where you were going there. I often think of my past and use it as a means to analyze where I am and where I want to get to. Where I struggel is balancing it all out. How do you guys balance things out?
投稿者: Online Banking | 2010年10月18日 00:12
That was interesting . I like your style that you put into your writing . Please do move forward with more similar to this.
投稿者: Online Banking | 2010年10月17日 13:05
朝日由実子:
関根先生、コメントどうもありがとうございます。
>おばさんの一喝でその都度引き直される食堂と路上の空間の>せめぎ合い空間が、外国人観光客などによって穴が開けられ>るのかな・・・などと想像した。
コメントへの直接のお答えになっていないかもしれませんが・・・補足として。
まず、このレストランをはじめ、カンボジアの大衆食堂の大半が、路上に面して、オープンなつくりになっています。すなわち路上と食堂との境界が、客だけではなく、あらゆる人々(物売りや物乞いなど)に侵犯される可能性を持っています。
それでも、経営者が、オープンな状態にしている直接的な理由として考えられるのは、第一に、外気が暑いのにクーラーがなく扇風機のみなので風通しのため。第二には、客の多くが、自家用バイクで訪れ、自分の大切な財産が盗まれないよう、食事中も常に路上に駐車したバイクが見える位置で食べる必要があると考えているからです。そして、第三に物売りの売る、雑誌や新聞などを、客も必要としていることがあるからだと思います。
とくに第二の理由については、実際、四方全てを壁で取り囲まれたレストランでは、客のバイクを管理する監視員を雇わなくてはなりません。監視員のコストなどのため、こうした監視員を雇っているレストランは、ある程度規模が大きいものか、高級なレストランになります。
屋台には、通常バイクの監視員はいません。
路上に面しているオープンな店は、路上からの視線:物売りや物乞いの人から客への目線だけではなく、食堂内部からの視線:中からも路上に止めた自分のバイクへの視線が常に合って、互いに見ているものは違うものの両側からの視線があります。
投稿者: 朝日由実子 | 2007年06月16日 01:47
関根康正:
肉まんがどうしてストリートに繋がるか?と読み始めたら、大変な結末。おばさんの一喝でその都度引き直される食堂と路上の空間のせめぎ合い空間が、外国人観光客などによって穴が開けられるのかな・・・などと想像した。トランスナショナリズムとストリート現象という科研のトピックにぴったりしてきた。肉まん半切れで取っ組み合う、このような空間に、生の空間の奥行きを感じてしまう、つじつまの合わない身勝手さを許し給え、カミよ!
投稿者: 関根康正 | 2007年06月14日 18:33