

科学研究費補助金研究成果報告書・補完論文集・目次
最終年度成果報告書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3-10
Ⅰ 『ストリートの人類学 上巻』(SER80)『ストリートの人類学 下巻』(SER81)の
目次・要旨集(和文・英文)・・・・・・・・・・・・・・・・11-45
Ⅱ 各年度成果報告要旨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46-47
Ⅲ 現地調査成果報告論文集
未完の「ストリートの人類学」への覚え書き――ストリートと「新たな共同性」の創発
関根 康正(日本女子大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48-52
イタリアの精神医療センターを訪ねて
野村 雅一(総合研究大学院大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53-57
パリおよびベルリンにて実地調査から
近森 高明(日本女子大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58-69
米軍統治下沖縄における奄美出身者たちの境位
加藤 政洋(立命館大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70-80
未確定な現在をストリートでとらえるために――インドネシア、西ティモールのアナ・ボトルと「クジ引き」
森田 良成 (大阪大学大学院)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81-90
国境をこえた「貧困空間」の創出
内藤 順子(日本学術振興会・特別研究員PD/日本女子大学)・・・・・・・・・・・91-105
都市生活者の女神信仰と異人歓待のあり方――インド、グジャラート州の
都市アフメダバードにおけるヒジュラの活動を中心に
國弘 暁子(群馬県立女子大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・106-125
現地調査報告集
関根 康正(日本女子大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・126-225
コート・ジヴォワールの大都市アビジャンのストリートから
鈴木 裕之(国士舘大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・226-242
シェン語のストリート性
小馬 徹(神奈川大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・243-261
理不尽な集合暴力の傷はいかにして癒されるか―ケニアの2007年選挙後暴動から2年
松田 素二(京都大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・271-276
「笑うブッダ」像の氾濫―スリランカ風水ビジネスとパッケージ化、脱パッケージ化、
ブリコラージュをめぐって
鈴木 晋介(国立民族学博物館) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・277-290
現地調査報告集
朝日 由実子(上智大学アジア文化研究所)・・・・・・・・・・・・・・・・・・291-329
オープン・フィールドに接続されるストリート空間と身体
植村 清加(東京国際大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・330-366
ハイブリッドな主体構築の空間、ローカリティとしての<境界>
雲南ムスリム移民の事例からストリートを考える
木村 自(大阪大学)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 367-383
アイヌ文化展示に見るトランスナショナリティ
関口 由彦(成城大学民俗学研究所)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・384-384
ストリートは脱領土化・異種混淆化の場か?
小田 亮(成城大学文芸学部)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・385-392
最終年度成果報告書
研究成果の概要:
ストリートの人類学は、流動性を加速させるネオリベラリズムとトランスナショナリズムが進行する再帰的近代化の現代社会に資する人類学の対象と方法を探求したものである。現代の「管理社会」下ではホーム・イデオロギーを逸脱したストリート現象の場所は二重の隠蔽の下にあるので、画定しにくいがゆえにまずは正確な対象画定が重要になる。系譜学的にそれを掘り起こしたうえで、そのストリート現象についてシステム全体を勘案した体系的なエスノグラフィを書くことを試みた。この<周辺>を<境界>に読み替えるというネオリベラリズムを適切に脱却する人類学的な新地平を開拓した。
キーワード:文化人類学、民族学、文化研究、トランスナショナリズム、ストリート文化
1.研究開始当初の背景
本研究は以下のような経緯で設定された。本研究の代表者は、公募により選定された国立民族学博物館の共同研究「ストリートの人類学」を2004年度より主宰してきた。この共同研究会は年に4回(初年度は3回)の共同研究会を民博で開催する形で実施される3年間のプロジェクトであり、2007年度まで行われる。本科研申請時は2年度目であったが、それまでに5回の研究会を開催し、多様な地域の研究者がそれぞれのストリート現象を論じてきた。その研究発表の要約は民博のホームページの共同研究会のページにアップされ、閲覧可能な状態で成果を逐次公開しており、相当なアクセス数を得ていた。
実は、この「ストリートの人類学」研究会の立ち上げには、更に前史があって、代表者は1998〜2000年度の間に客員教授として「<都市的なるもの>とは何か?」と題した共同研究会を組織したことがある。その成果はすでに2004年2月に日本生命財団の出版助成を受けて『<都市的なるもの>の現在:文化人類学的考察』として東京大学出版会より公刊された[関根 2004]。つまり共同研究会「ストリートの人類学」はその研究土台の上に企画されたものである。
こうして、理解されるように、本研究にとって、二つの前史になる共同研究会の蓄積はきわめて強固な土台であり、それ無しには本研究の申請も構想されなかった。すなわち、研究会メンバー及びゲストスピーカーからなる地域・関心の多様な研究者と継続的に議論を重ねてきた蓄積は、本研究遂行に非常に有利に働く共有財産であり、共有基盤である。したがって、この科研応募は、上記の「ストリートの人類学」に結集して議論を重ねてきた人々が、再びそれぞれのフィールドのストリート現象の新たな実相を求めて、更なるフィールドワークを実践してストリート問題を実証的に深化させることを願目としたのである。したがって、「ストリートの人類学」共同研究会のメンバーの中核にいる中堅の研究分担者の調査研究を中軸にしつつ、さらに若手のメンバーに研究協力者としてフィールドワークを大いに実践してもらいたいと考えた。共同研究会は会合を持ち議論を重ねているが、本研究の問題意識にそったフィールドワーク実践はまだまだ不十分な状態であると痛感され、世界各地のストリート事象を更に詳しく記述検討する必要がある。それがこの科研申請に至った経緯である。
2.研究の目的
本研究の目的は、「下からの視点」と重なるヒューリスティック・アプローチを特徴とする人類学的方法・視座をもって、グローバル・フローの吹き荒れる現代の生活世界の現実をできるだけ正確に描写・分析することにある。その意味で、トランスナショナリズム研究の一翼を担うものだが、非定住的な「ストリート」現象に特に注目することで、従来の研究では看過されがちであった、グローバリゼーションによって活性化するローカリティ(「勝利するローカリティ」)ではなく、抑圧され駆逐される「敗北したローカリティ」の救出に明確に標準を定める。「下からのトランスナショナリズム」をさらに詳細に腑分けすることが生きられる現実分析には不可欠であるからである。
3.研究の方法
本研究は4年間に渡る海外学術調査を敢行することが基本的な内容である。
研究代表者および連携研究者は総計14名であるが、そのうち海外調査を行う者が12名、国内調査を実施するのが2名である。原則的には、海外調査者12名は6名ずつの2グループ(海外調査第一グループと海外調査第二グループとする)に分けて隔年で調査を半数ずつ実施することにする。中堅研究者は既に現地との長く深い関係が樹立されているので、すぐに本研究の課題に現地で取り組めるので、それぞれ4年間のうちに二度の現地調査であるが、相応の成果が期待できる。
若手の研究協力者として、大学院博士課程在学者5名、朝日由実子(上智大学大学院)・国弘暁子(お茶の水女子大学大学院)・内藤順子(九州大学大学院)・森田良成(大阪大学大学院)・山田香織(総合研究大学院大学)が、海外での集中調査を行った。研究協力者として阿部年晴埼玉大学名誉教授を依頼するのは、氏の文化をめぐる「後背地論」はストリート現象を論じる場合に不可欠な理論的射程を持っているので本研究のアドヴァイザーとして協力をお願いした。若干名の追加の研究協力者にも随時お願いし研究の広がりを持たせることができた。
4.研究成果
主要な研究成果は、2009年の段階で、すでに計37章、約1000頁からなる『ストリートの人類学』上巻・下巻(民博SER80,81)としてまとめられた。この主要成果に加えて、さらに、2010年には成果報告書・補完論文集が7月までに本科研用ホームページ上に公刊される。その中には、『ストリートの人類学』上巻・下巻掲載論文の英語版要約集も収録される。
(1)ストリートの人類学の目標の画定:脱ネオリベラリズムのための人類学再考
ストリートの人類学は、「都市の(ofでありinである)人類学」ではあるが、「都市人類学」の部分をなすようなプロジェクトではない。「都市の人類学」研究者Setha M. Lowは、編著『都市を理論化する』(Theorizing the City)』(Low 2005(1999))という編著の序論で、こう述べる。人類学的都市研究は、都市とは何かという都市の本質主義を検討するのではなく、都市現象として現れている社会関係・象徴・政治経済などに関心を向けていくものであるとする。この意味での都市の人類学も、ストリートの人類学も、優れて現代社会全体の人類学そのものを探究するものである。歴史的に遡っても都市は、そして都市のストリートは、各時代の社会全体のあり方を敏感に先端的に反映し体現する場であったろう。
阿部年晴はこうした都市民族誌の視点とその重要性を、もっと大きな人類史のスケールで、もっと方法意識的で鋭角的に指摘していた(阿部1989)。阿部は都市と都市的なものとを、都市的世界と非都市的世界という二つの異なる原理に根ざす社会のあり方の比較(都市の脱親和化の方法)の視野の中で、区別する。その手続きによって、都市的なるものは非都市的世界にも存在することを見通す視座が与えられ、妖術的なものと都市的なるものとのとの相応性を明らかにする。妖術は非都市的世界の都市的なるものを体現し、他方、膨張する現代都市の様相の内に権力中枢と交易の結節という世俗的理解だけに留まらない、専門分化の小宇宙を通じた人工環境への過剰適応状況、言うなれば都市の変化のデーモンに取り付かれた都市世界には、再度宗教や呪術からのアプローチが可能であり必要であると説く。「民族誌的都市論は、日常生活をこのような全体的構図のなかでみなければならない。都市はコミュニティのそとに、社会的機能の集積の場として成立した。コミュニティの日常生活からみれば、それはもともと外的なものであった。生活物質を後背地に依存していたように、都市の生活は、基層的文化をも後背地から継承したのである。その後都市は文化の後背地を都市空間の内部にとりこんだ。それは都市の内部で基層的な文化をうみだす相対的に自律的なコミュニティであった。ところがこんにち、国家と市場経済と一体化した都市は、自己の内外で、自己存立の要件である文化的後背地を変質させ失いつつある。」(阿部1989:52)
本研究における都市への注目、そこでのストリート空間への注目の理由は、ここに良く述べられている。ストリートの人類学は、この意味での都市の変化のデーモンと新らたの後背地(生きられる文化)の構築が課題になる。私はこれを人類学の本議に立ち返る<境界論的転回>と呼ぶ。ストリートという、交通や移動を引き起こす差異・境界を時空間的に体現している場を、議論の対象に意識的に据え、そこでのフィールドワークとそれに基づく理論的議論を通じて、上記の研究目的の達成を試みた。
ベンヤミンのパサージュをめぐる論にも似て、ストリートは「対象」であると同時に「方法」であり、境界論における「ベルクソン的・ドゥルーズ的転回」とでも呼ぶべき生の哲学の議論へと向かう。「潜在的なるもの」を前提にした、運動的で、生成的な視点をストリートの検討から導き出し、現代社会を席巻する思潮である近代主義の新展開としてのネオリベラリズムへの異議申し立てを行うものである。その舞台としてストリートはふさわしい。近代主義の精神、それを体現する近代主義的管理空間では死を宣告され排除されるストリートが、それ故に「抵抗」拠点として期待できる場になる。このことを正当化する議論がある。大澤真幸は、マルクス主義において革命後になぜ真の民主主義の樹立と言わずに「プロレタリアート独裁」なのか、と問いを提出し、それに対して次のように答えてみせる。人民の統一性という民主主義の基盤を阻む力を有する資本主義(剰余価値というアンバランスをもちこむもの)に抗しながら、しかしナチズムのようにユダヤ人という「統一的なドイツ人民」の敵を創出しないやり方、むしろその排除された他者を民主的な意志の代表(社会的な普遍性に代理人)とみなす「プロレタリアート独裁」という独特の民主主義の基本構想を立てる必要があったと述べる。資本主義体制にも、またそれに対峙して立てられた「民主主義の一形態としてのファシズム」にも抗するものとして、「人民」の共同性、統一性にではなく、それがむしろ排除した他者に基礎づけられた独特の民主主義としての「プロレタリアート独裁」を提示する。この論を引用したのは、「プロレタリアート独裁」と同じ理論的位置に、流動破綻をもたらすネオリベラリズムという高度資本主義(流動性と再帰性だけを高め、アンバランスに「高度均質化」を進めるネオリベラリズム)に対して、それへの表面的対抗して出てくる防御的ブロック化としての各種ナショナリズムや新たなレイシズム(ホーム中心主義者のゲイティッド・コミュニティと排除されたストリートに投げ出されるアンダークラスとの差別的分離)に陥らないで、抵抗克服していくものとして、「ストリート独裁」を据えたいのである。これは人に注目すれば「プレカリアート独裁」とか「サバルタン独裁」と言ってもいっこうに構わないが、ここでは社会空間の縁辺という物理的な場にこだわって「ストリート独裁」と言っておこう。
もちろんそれはストリートのロマン化なのではない。むしろ逆であって、蒙昧に安易にロマン化したホームにプラッシュバックする主流に対して、鬼気迫るストリート的な現実を差し出すことが目論見である。人間の生の本源あるいは剥き出しの生(アガンベンのビオスに回収できない他性の生としてのゾーエーに当たるもの(アガンベン2003))に感応呼応するストリート性を差し出さねばならないほどに、現代は追い込まれたと言うべきであろうか。
ストリートの人類学は、脱ネオリベラリズムを標榜し、知らぬ間に自分が自分で首を絞めていくような自己監査文化(audit cultures)の檻の中に現実生活を閉じこめていく主流傾向に歯止めをかける意図を有している。そこにこの人類学的研究の社会的コミットメントの要諦があると自認している。このようなネオリベラリズムの跋扈する社会での、対象化しにくい巧妙な差別と閉塞を、「ストリートの人類学」は明るみに出す意図を明確に持っている。この現代社会で生きられる人間を救い出すために考察する研究は増えてきている。たとえば、社会学と精神分析の間で仕事をする樫原愛子は著書『ネオリベラリズムの精神分析』を世に問うた。ここで、その好著の第二章「再帰性のもつ問題」で、きわめて簡潔に取り組みの方向性を見極めるための基礎的整理をしてくれていて、参考になる(樫原 2007)。その重要なポイントは、ギデンズやベックが言うように、省察としての自己再帰性と暴走している社会的(制度的)再帰性との区別を自覚的に行い、マクドナルド的主体に人間を非創造的に縮減してしまうような暴走を、良き自己再帰性を探究することで歯止めをかけることだという点である(Giddens 1991)(Beck 1986)(Beck, Giddens and Lash 1994)。そのときに再帰性が伝統よりも良いという前提も単純には首肯してはならない。伝統と言われるものは一回一回作り上げてきたものでないか、同様にローカリティもそういうものではないか、それはアルジュン・アパドゥライの近代性を問い直す仕事の主張のポイントでもあった(アパドゥライ2004)(Appadurai1996)。伝統やローカリティもまた再帰性を経て作られていたのである。その意味で埋め込まれた固定的な伝統と脱埋め込みの流動的な近代との二元論は理論的に相対化される必要がある。
そのような固定か流動かの二元論ではなく、日常的な生活世界が保ってきたはずの、正常な自己再帰性の空間を再評価し、現代において確保することが肝要である。そのための要点をこれまでの議論を整理する形で、3点記したい。いずれも現代の生活現場では言い出しにくくなっていることであるが。だからあえて述べる形になる。1)生きられる人間はそう簡単に「説明責任」は果たせないというあたりまえの事実に立ち返ること。2)人間は危険(danger)とともに生きているのが常態であると覚悟すること、つまり有責性を外在化させ当事者に問いすぎないことでリスク社会化に歯止めをかけること。3)規則ルールは現場に即応して生成的であるときのみ健全で人間が生きられる場を開拓できるものであること。
改めてこのような基準点を据え直すことによって、説明責任の履行とリスク化の増大との負のスパイラルに私たちを閉じこめるような、上からの間接支配的な抑圧政策に抗する方向性だけはまず確認することができるだろう。そして3)に関わるが、自己責任と外在要因の折り合い、危険とリスクとの折り合いをほどほどに止めるようなまともさを社会が取り戻すには、いつでもどこでも通用するような一般論で思考していては絶対にかなわないことが、重要である。そうしていてはネオリベラリズムの檻から脱出できない。そうではなく、ミクロな生活現場で具体的に身体をもって責任と危険とリスクの折り合いをもたらす解決策を探る過程をはずしてはならない。
このミクロな実践は、まさに、アパドゥライが『さまよえる近代』において明確に議論していた、具体的なマテリアルとコンテクストを踏まえたローカリティとネイバーフッド(近接、近隣)の絶えざる生産過程のことである。つまり、ローカル・ノレッジやストリート・ノレッジが果たしてきた役割こそが、固有の現実に即したその場に固有の解決策なのである。排他的な「高度均質化」に抗する道は、そうした固有の場を拠点にしなければ拓かれてこない。ついでに公共の場からの葛藤の追放が非人格的な官僚化への後戻りをもたらすとの、セネットの警句を思い起こしておくのも重要だろう(セネット1975,1991)。しかしあくまでも葛藤は平均化した公共空間においてもはや想定されるべきではなく、ミクロな固有の場において実践されるものとして学ぶのである。
(2)ストリートの縁辺と敗北したローカリティに注目する体系的エスノグラフィという成果
先に、ローカル・ノレッジとストリート・ノレッジとを並行的に記した。ローカルなものとストリートには共通点がある。どちらも主流権力から押し込まれた空間である。ローカルなものは、グローバル権力によって押し込まれ、ストリートはホーム権力によって押し込まれる。その意味でどちらもサバルタンの生きる縁辺空間となる可能性のある場所である。縁辺の場での生活は様々な主流の圧力のかかる受動的状況の中での抗争contestationであり、不安定で持続しにくいブリコルールの生活構築サバイバルが展開する。このことは、ローカルな場やストリートが縁辺空間として切り取られ別の場所にあると言っているのではない。そういう縁辺空間は主流権力が作り出し、その力が浸透した空間として実現している。そこは、排除し管理する主流権力がその視点からローカリティやストリート性を意味づける取り込みが作動している。この上から取り込まれたローカリティやストリート性によって、取り込まれなかったローカリティやストリート性は隠されることになる。つまり、ローカルな場はグローバル権力によってローカルの意味を、ストリートはホーム権力によってストリートの意味を規定される。そして、その規定によって取り込まれたローカリティやストリート性が、そのような権力への備給を行った基盤的ローカリティやストリートに成り代わってしまうために、廃棄されたローカリティがあったこと自体を隠蔽するのだ。これが隠蔽の隠蔽である。そうであるから、このことを明確にするために「勝利するローカリティ」と「敗北したローカリティ」とを区別する必要を説いた。ローカルの場、ストリートの場でのこうした隠蔽の隠蔽をこそ問題にしなければならない。これがネオリベラリズム下の、管理社会化するポスト近代下でのストリート問題であり、ローカリティの問題である。すなわち、ストリートの人類学は、入り口としては文字通りのストリートから入るが、その出口では二重に隠蔽・消去された場所という広義(真)のストリートの発見へと、研究対象を展開・深化していくことになる。
二重に隠蔽された境界つまりの真のストリート、それこそがストリートの人類学が対象にする「ストリート化」した場所であり、それは、都市空間の中に穴ぼこのように散在し偏在する縁辺・隙間なのである。家無し宿無しの都市民はそうした隙間を縫って生きる。その意味では、日本の大都市のまんが喫茶やインターネットカフェやマクドナルドもまたストリートな場所と言うことができる。いわゆるホームレス(野宿者)だけではなく、ワーキングプア、低賃金で働く増えるばかりの外国人労働移民など、格差社会のアンダークラスに振り分けられる現代のサバルタン(プレカリアート)が生を繋ぐ場所が広義(真)のストリートであり、文字通りのストリートはむしろ観察の入り口なのである。定義するとすれば、社会空間の縁辺・隙間こそが「ストリート化」を体現したストリートということになる。ここでもう一度正確にいっておかなければならないのは、縁辺・隙間は自立した空間ではない。主流空間のすぐ脇に寄生して張り付くように存在する場であり、主流社会の強い空間の意味づけを前提にした流用の所作が見いだせる場所ということである。「ストリート化」した場所はしたがって、主流の流れをすでにエネルギーにしているし、それ無しには成り立たない。そういう縁辺・隙間なのである。勝利の力のネガのようにへばりつく敗北の位置を元手に生き延びる場所のことである。インドで言えば、幹線道路の中央の車道と端の歩道との両方があってはじめてストリートの縁辺に「ストリート化」した場所は生成している。この抗争的な接点がなければ、道であってもここでの議論の対象としてのストリートな場所にはならない。現代日本であれば、歩道も殆ど主流の力で抑えられているから、インドの歩道に当たる接点的な流用空間が、公園や安いカフェに見えにくくずれ込むのである。
このようにストリートが見えにくい場所にずれ込むのは、近代型第三世界的貧困とポスト近代型第四世界的貧困との違いである。現代インド社会の大都市の路上と今日の日本やニューヨークなどのグローバルシティの路上との両極的対比は、程度の差になりつつあるがまだ依然可能だろう。前者の方が路上生活者と社会との関係に血が通ったところがある。日本社会の歴史を遡って考えたときの「ものもらい」ないし乞食(こつじき)を吟味する野村雅一の言い方に従えば、その伝統をわずかに背負った乞食(こじき)はなおも通りに顔を向けているが、ホームレスは通りに背を向けているという。この社会との接続性についての乞食とホームレスの対比(その間に程度差だけに還元できない質的転換が起こっている)が近代型第三世界的貧困とポスト近代型第四世界的貧困との間にあるということである。だが、インドの路上も後者に向けて厳しさを増していることも指摘しておかねばならない。つまり、現在のインドの都市の路上生活者の現実には両者の要素が入り交じっているだろう。というのは、農村から都市スラムに流れ込んでくるあり様が、単に量的に増大したというより、経済自由化(構造調整政策)を受け入れた1990年代以降の社会・経済的構造変化に対応して激化している点で、すでに第四世界的であるし、国内外からの移民への排斥行動の顕在化などでも新たな時代状況に入っていることの証である。たとえば、わずかな教育機会と貧困に苦しみ、クーリーまでした末に南インド映画界のスーパースターにまで上り詰めたラジニカーント(1949年生まれ)のような人物 (Sreekanth 2008)が出てくる可能性の余地、つまり主流社会と下層社会とが差別的であれ一定の有機的関係を保持していたのが第三世界的段階であったとしたら、今やそのような関係はより厳しく切断されて管理型社会の特徴となる新たな格差社会化がインドでも進行し固定化し始めている。
とにかく、上述したようなストリートの定義に則れば、違和感なく、グローバリズムが席巻するグローバル社会空間の縁辺としてのローカルな場所というものに、ストリート概念を敷衍できることが理解できよう。ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京など世界都市ないしグローバル都市は、その縁辺に移民集団を含むアンダークラスないし第四世界を抱え込んでいる。グローバル資本主義が作りだしたトランスナショナル・スペースにおいて、その政治経済中枢のメトロポールからの力にへばりつくように生きる国内下層や下層移民が縁辺空間の住人となっている。このようなグローバルスケールのサバルタンたちが住む場所は、当初は社会の一体化を前提にした同化政策(その中身は、仏的「統合」や、英国的・米国的な「多文化主義」などいくつかのヴァリエーションがある)の対象であったが、そうした福祉国家的手法が限界を露呈してきて、九〇年代以降明らかに露骨な分離的管理的政策、つまり管理社会化がかつての宗主国で目立ってきている。ここに立ち上がっているのがトランスナショナルな社会空間の縁辺というストリート問題である。
具体的に描けるストリートの縁辺から大きな社会空間の縁辺というストリートまで、現代社会がかかえる同じ問題が貫いている。この問題を解決すべき課題として据えるとき、ストリートの人類学は、ベンヤミンを当然踏まえた渋谷望の言う「敗北者の考古学」と重なる志を有するだろう。二重に消去されたとされるものを、消されたはずのその縁辺での生きられた生活世界において発掘するのである。このストリートの人類学は、まちがいなく、阿部年晴のいう、人間である為に普遍(不変)的に必要な人間再生産の揺籃、つまり「<後背地>としての文化」を探究する研究と併走しているものと信じる。
主流秩序からは無秩序として消去・排除の対象になった様相のなかに、不均質な雑多さを当然視するような「敗北したストリート」の生活世界にあったろう<都市的なるもの>、つまりセネット的な意味での「無秩序の活用」(セネット 1975)に再び光を当ててみたいのである。そのときは、主流秩序が取り込んだビオスの生が覆う世界においてもなおある穴ぼこや隙間にゾーエーの野生の生を掘りあて、そこからとって返して生活秩序を組み直すような境界的思考が求められるにちがいない。そこでは、計画、効率の価値では測れない生活感覚世界や、あるいは結果的に構築される一種の「何も共有しない者たちの連帯、共同性」(リンギス 2006))などが示唆するように、活用と言えないような活用、streetwisdomとも言えないstreetwisdomまで射程に入れる必要があるに違いない。そのために、イデオロギー・レベルでの主流の価値意識・言語の単なる否定や反転ではなく、生活感覚や生活感情という身体性を基盤にした「全体的理解」に基づく根本的反省が必要に違いない。そこに、主流言語が自然化した形で実践されてしまう構造的差別(「三者関係の差別」(関根2006))を無効化するような視点転換を促してくれる、ストリートの本格的なエスノグラフィーが待たれる理由があった。本研究は、『ストリートの人類学』および成果報告書・補完論文集の内容が明らかにするように、このような意味での、貴重なフィールドワークに基づく多くのエスノグラフィーが集積できたことで、その目的を大いに達成したことになる。
その結果、「ストリート化」した場所のエスノグラフィーの集積は、絶望の中に希望の灯を私たちに見出させる。ストリート現象が都市の無意識の地層に届くとき結果的に権力構造をも飲み込み機能不全に追い込む。思考の入り口としての権力構造の生産する縁辺という亀裂は、思考の出口において権力構造の向こう側に出て無効化する地平を露呈してくれる。これこそストリートの創造性である。もちろんそれは権力構造の下層の痛みを無視することではなく、それこそが彼らの痛みと努力を真に受け取り普遍的な形に展開していく道だと信ずるからの所為である。
権力構造とは、ツリー状の思考の産物である。そこは思考の端緒になるかもしれないが、終着点ではあり得ない。ストリートは都市計画という条理空間の建設の産物であるのに、面白くもそれを裏切る。なぜならストリートは繋ぐという関係樹立の流動という性質を本質的にもつゆえに平滑空間への展開を運命づけられている。都市においてストリートという縁辺空間の道筋を辿る動きは、都市の深層、都市の無意識にいたる可能性を孕んでいる。都市計画が期待するストリートは目的地に到達することだろうが、ストリートはその表だった機能に付随しながら、それを超えた過剰性を移動の過程において産出する。ストリートの縁辺性とはこの過剰な脱線性のことである。これは、ベンヤミンが個物そのもののニュアンスを聴き取ると称した営みでもあろう。ドゥルーズならば、非-ミュニケーションの断絶的空隙の創出であり、そうした空隙がリゾーム的につながる平滑空間の現出と言うのだろう。小田亮は研究会の発表において、管理された条理空間を平滑空間に変容させるような人々の実践を語ることが、ストリートの人類学の役割だろうという、研究会の早い段階で鋭く、卓見を述べていたことを記しておこう。小田は、「顔のある」ことや「かけがえのなさ」を重視し、それを関係の過剰性として説明しているが(小田2007)、そのことは、私が目下「弱い表象ないし表現」を聴くこと、「弱いコミュニケーション」の獲得に注目することと重なると理解している((関根2007)参照)。
5.主な発表論文等
(研究代表者、研究分担者及び連携研究者には下線)
〔雑誌論文〕(計98件)
①小田亮「真正性の水準について」『思想』1016号、査読無、2009、pp.297-316。
②鈴木裕之「ストリートで生成するスラング:コート・ジボワール、アビジャンの都市言語」『アフリカのことばと社会:多言語状況を生きるということ』査読無、三元社、2009、pp. 161-187。
③近森高明「Between the 'Media City' and the 'City as a Medium'」『Theory, Culture & Society』Vol.26(4)、査読有、2009、pp. 147-54。
④小田亮「『二重社会』という視点とネオリベラリズム:生存のための日常的実践」『文化人類学』74-2、査読有、2009、pp. 272-292。
⑤松田素二「グローバル化時代における共同体の再想像について」『哲学研究』584号、査読有、2008、pp.1-35。
⑥関根康正・小田亮・近森高明・鈴木裕之・加藤政洋・玉置育子「特集 ストリートの人類学」『民博通信』116号、査読有、2007、pp.1-17。
⑦関根康正「「資本としての知識」から「資源としての知識」への視点の移行がもたらすもの」『資源人類学 知識資源の陰と陽』第3巻、査読有、弘文堂、2007、pp. 219-248。
⑧Yasumasa Sekine, “Sacralisation of the Urban Footpath, with Special Reference to Pavement Shrines in Chennai City, South India”, Temenos : Nordic Journal of Comparative Religion, 42-2, 査読有, 2006. pp.79-92
〔学会発表〕(計48件)
①関根康正“Street, Transnationalism and Migration”, Department of Sociology and Social Work, 2010年3月, University of Bucharest(Bucharest・Romania).
②関根康正“Toward an Anthropology of the Street : Street Phenomena in the Era of Reflexive Modernization”, V&A/RCA research seminar, 2009年2月, Royal College of Art and Victoria & Albert Museum (London・UK).
③棚橋訓「「第三世界」と「第四世界」の捉え方をめぐって:その系譜と模索」、国立民族学博物館共同研究会「生の複雑性をめぐる人類学的研究―『第四世界』の新たな記述にむけて」、2008年12月、成城大学(東京都)。
④トム・ギル“Responses to Homelessness in Japan, the United States and Britain― an Anthropological Approach”, Abe Fellow’s Retreat 2007, 2008年1月, Hilton
Hotel Cocoa Beach, Florida.
〔図書〕(計21件)
①小田亮『グローカリゼーションと共同性(グローカル研究叢書1)』成城大学民俗学研究所グローカル研究センター、2010、274頁。
②関根康正(編著)『ストリートの人類学 上・下巻』国立民族学博物館、2009、970頁。
2008年度成果報告
平成20年度は、次のような現地調査が実施され成果を上げた。関根によるイギリスのロンドン、バーミンガム、レスターにおける南アジア系移民会調査から、トランスナショナリズムの歴史的由来と、同時代的共存におけるアドホックな地域的融合とのふたつの射程の解明が不可欠と自覚された。小馬は、東アフリカのナイロビの都市ストリートを発祥地とする若者文化と結合した混成的な言語シェン語の発達変容を追究し、ストリート言語の創造性を論じた。鈴木裕之は、西アフリカの大都市アビジャンにおいて2002年政変以降のストリート状況をポピュラー音楽に焦点化して解明している。支配構造の変容と庶民文化の創造力との交渉がここでも重要であった。松本は、戦前のオーストラリアへの日本人移民の二世・三世などが一世の出身地を訪問交流するという新事態を、観光化を伴うトランスナショナル現象の一断面として調査した。玉置はユニークフェイスと化粧を研究する過程で、それへのサポート運動自体がトランスナショナルなメディア環境の進展で変容してきたとする。近森は大阪における地下鉄導入の経緯を詳しく調べ、そこに上からの都市計画でありながら、ストリート性に通じる過剰性を見出し、近代の計画実践にはらまれる無意識のねじれに注目した。内藤は、チリのサンチャゴ市で近年の民芸品をめぐってグローバリティ、ナショナリティ、ローカリティの三者の絡み合いを検討した。朝日は、カンボジアにおける伝統的染織業をめぐって、鈴木晋介はスリランカのキャンディ市のストリート現象をめぐって、トランスナショナリティとローカルな活動の影響関係を考察した。総じて、着実に本科研の目的に沿った世界各国からのデータ蓄積が進んでいる。これまでの3年間の研究蓄積が、中間報告的位置を占める、関根康正編著『ストリートの人類学 上巻、下巻』(SER 80,SER81)国立民族博物館(2009年3月31日刊行)に結実している。
2009年09月02日2008年度研究業績一覧(研究代表者・連携研究者・研究協力者)
2008年度研究業績一覧(研究代表者・連携研究者・研究協力者)
【研究代表】
■関根康正
(著書)
・関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、2009年。
・関根康正編『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、2009年。
(口頭発表)
・“Toward an Anthropology of the Street : Street Phenomena in the Era of Reflexive Modernization”, V&A/RCA research seminar, Royal College of Art and Victoria & Albert Museum, February 19, 2009.
・“Merging Locations from the Bottom:un-familiarization and familiarization of dislocation”, International Seminar <‘Location’ in the 21st Century: The Possible Futures of Sociology and Social Anthropology>, University of Delhi, February 25-27, 2009.
【連携研究者】
■松本博之
(論文)
・「オーストラリア・トレス海峡の2つの海:先住民族の「場所性」と主流社会の「正当性」」 関根康正(編)『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、231-259頁、2009年。
■小田 亮
(論文)
・「真正性の水準について」『思想』1016号、297-316頁、2008年12月。
・「共同体と代替不可能性について:社会の二層性についての試論」『日本常民文化紀要』第27輯、2009年。
・「生活の場としてのストリートのために:流動性と恒常性の対立を超えて」『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、489-518頁、2009年。
■松田素二
(著書)
・日本文化人類学会編(編集委員長・松田素二)『文化人類学事典』丸善出版、2009。
(論文)
・「アフリカから何が見えるのか」『興亡の世界史 第20巻』講談社、229-291頁、2009年。
・「平和のフェティシズム考:文化的フェティシズム批判を超えて」田中雅一編『フェティシズム論の系譜と展望』京都大学出版会、241-273頁、2009年。
・「暴力の舞台としてのストリート:2007-8年ケニア・ポスト選挙暴動を事例として」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、385-408頁、2009年。
(口頭発表)
・“Forest Conservation Discourse as the Weapon of the Strong:With a Special reference to Maragoli Forest Communities in Western Kenya”, Chiang Mai Seminar“Community of Becoming”, August 16-17, 2008.
・“Beyond the Africa-Schema”, Japan-Africa Journalist Conference at Yaounde, Cameroon, March 4, 2009.
■小馬 徹
(論文)
・「宣伝広告から「国民文学」へ:ケニアの新混成言語シェン語の力」『歴史と民俗』25、平凡社、123-171頁、2009年。
・「『盗まれた若者革命』とエスノ・ナショナリズム:ケニア『ニ〇〇七年総選挙後危機』の深層」『神奈川大学評論』61号、83-95頁、2008年。
・「隠語からプロパガンダ言語へ:シェン語のストリート性とその発展的変成」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、349-383頁、2009年。
■鈴木裕之
(論文)
・「近代都市アビジャンの若者文化:マス・メディア情報を取りこむストリート・ボーイたち」池谷和信・佐藤廉也・武内進一(編)『朝倉世界地理講座:大地と人間の物語11:アフリカII』朝倉書店、749-760頁、2008年4月。
・「ストリートで意味を生産する:アビジャンにおけるストリート文化の記号論」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、327-347頁、2009年。
(口頭発表)
・「来住アフリカ人ミュージシャンの来歴と活動状況」第45回日本アフリカ学会学術大会、龍谷大学、2008年5月25日。
■棚橋 訓
(論文)
・「ストリートとストリーム:ポリネシアでストリート現象を考えるための覚書」関根康正編『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、261-269頁、2009年。
・「聖恩の景観史:マーシャル諸島にみる軍政期南洋群島統治の一断面」日本オセアニア学会編『オセアニア学』京都大学学術出版会、2009年。
・「植民地主義との邂逅」片山一道・熊谷圭知(編)『新世界地理―大地と人の物語―第15巻オセアニア』朝倉書店、2009年。
(口頭発表)
・「コメント:反権力か脱権力化か:再帰的近代化段階における再ジェンダー化」日本文化人類学会第42回研究大会分科会「権力のジェンダー化」、京都大学、2008年6月1日。
・“Comment on Modern Erotic Worlds”, The Sophia Global Studies Symposium: Bodies and Borders: Exploring Issues of Intimacy and Corporality across Social and Cultural Boundaries, Central Library, Sophia University, January 24, 2009.
・「地図の力、ふたたび:マジュロ調査から考える」日本貿易振興機構アジア経済研究所研究会「太平洋島嶼諸国の知識社会化と政治社会変動」アジア経済研究所、2008年12月。
・「浜の単独者の系譜―ポリネシアのビーチコーマー」東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究プロジェクト「『シングル』と社会-人類学的研究」、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2008年12月。
・「「第三世界」と「第四世界」の捉え方をめぐって―その系譜と模索」、国立民族学博物館共同研究会「生の複雑性をめぐる人類学的研究―『第四世界』の新たな記述にむけて」成城大学、2008年12月。
・「ポリネシアのbeachで公共性について考える」、国立民族学博物館共同研究会「脱植民地期オセアニアの多文化的公共圏の比較研究」国立民族学博物館、2009年1月。
■トム・ギル
(論文)
・「闘争空間としてのストリート:シェルターを拒否するホームレスの日・米・英比較研究」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、149-184頁、2009年。
(口頭発表)
・「L.A. スキッドロウ:米国最大ドヤ街の現在」寄せ場学会関東支部、東洋大学白山キャンパス、2008年7月6日。
■加藤政洋
(著書)
・水内俊雄・加藤政洋・大城直樹編『モダン都市の系譜』ナカニシヤ出版、2008年5月。
(論文)
・「ストリートの空間論の系譜と現在:都市地理学を中心にして」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、97-132頁、2009年。
・「ストリートの現働化:規律-管理社会をめぐる時間地理学からの展望」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、133-145頁、2009年。
(口頭発表)
・「都市の空間編成と植民地主義」シンポジウム「世界-地域的実践としてのコメ文明:植民地と脱植民地の視座から」(主催:全北大学校 人文韓国コメ・生・文明研究院)、全北大学校進修堂、2008年10月16日。
■近森高明
(論文)
・「直接性を迂回する:ベンヤミンの《弁証法的イメージ》について」『Becoming』第23号、2009年。
・「地下鉄のなかの都市:1920年代東京における地下鉄の導入過程について」『日本女子大学大学院人間社会研究科紀要』第15号、1-15頁、2009年。
・「遊歩と痕跡:都市の記憶を読む技法について」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、53-71頁、2009年。
(口頭発表)
・「ベンヤミンとルフェーヴル:対抗空間に付随する《イメージ/言語》の問題圏をめぐって」Cultural Typhoon 2008 in Sendai、せんだいメディアテーク、 2008年6月。
■島村一平
(論文)
・「文化資源として利用されるチンギス・ハーン モンゴル、日本、ロシア、中国の比較から」滋賀県立大学人間文化学部研究報告『人間文化』24号、7-34頁、2008年。
・「特集解説:文化資源として利用されるチンギス・ハーン モンゴル、日本、ロシア、中国の比較から」滋賀県立大学人間文化学部研究報告『人間文化』24号、2-5頁、2008年。
・「ハイカルチャー化するサブカルシャー?:ポスト社会主義モンゴルにおけるポピュラー音楽とストリート文化」関根康正編『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、431-461頁、2009年。
・“Нийллэг сэтгэлгээний зовлон: Орчин үеийн Монгол дахь шарын бөө гэдэг нэр томьёоны талаарх зөрчил”(シンクレティズムの困窮:モンゴルのシャーマニズム研究における「黄色いシャーマン」を巡る言説とその矛盾), Монгол дахь Шашины Өнөөгийн Нөхөцөл ба Түүний Судалгаа(「モンゴルにおける宗教の現状とその研究」), Mongol ulsyn bolovslolyn ikh surguuli(モンゴル国立教育大学), 2009.
■玉置育子
(論文)
・「雑誌「主婦の友」の記事"美容相談"から見る美容への関心」『生活美学研究所紀要』(武庫川女子大学)第18号、56-67頁、2008年。
・「リングとしてのストリート:化粧で武装し、化粧で紛れる人々」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、271-287頁、2009年。
【研究協力者】
■鈴木晋介
(論文)
・「青果物卸売市場の「いま」と「あの頃」:新潟県長岡市の地方卸売市場における「場所性」の変容を焦点として」関根康正編『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、185-212頁、2009年。
(口頭発表)
・「スリランカのエステート・タミルをめぐる民族論的状況:『名』にまつわる微細な係争を焦点として」慶應義塾大学人類学研究会、2008年12月3日。
■森田良成
(論文)
・「貧乏:『カネがない』とはどういうことか」春日直樹編『人類学で世界をみる』ミネルヴァ書房、295-307頁、2008年。
・「村人たちとストリート:西ティモールのアナ・ボトルにみる希望」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、223-243頁、2009年。
(口頭発表)
・「『怠け者』たちの労働と生存:西ティモールの廃品回収人の事例」、京都人類学研究会シンポジウム「自立・連帯・生存:ネオ・リベラリズム時代の『貧困』をめぐる社会学と人類学の対話」、(共催:京都大学GCOE「生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点」、大阪大学GCOE「コンフリクトの人文学国際研究教育拠点」)、京都大学、2008年7月26日。
・「出稼ぎ農民たちの「抗議」の顛末:西ティモールの都市における廃品回収人のコミュニティ 」、国立民族学博物館共同研究会「東アジア・東南アジア地域におけるコミュニティの政治人類学」(代表:平井京之介)、国立民族学博物館、2008年7月5日。
・「抗議の行方:廃品回収人と親方も衝突をめぐって」、大阪大学グローバルCOE・コンフリクトの人文学国際研究教育拠点「「コンフリクト」を理解する理論的・方法論的な研究」(代表:春日直樹)、大阪大学、2008年10月18日。
■内藤順子
(著書)
・荒川歩・川喜田敦子・谷川竜一・内藤順子編『<境界>の今を生きる:身体から世界空間へ』東信堂、2009年。
(論文)
・「<下からの>人類学的開発援助:チリにおける地域リハビリテーションの実践から」
『国際開発研究』17-2、77-91頁、2008年11月。
・「ストリートに育まれる身体」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、245-270頁、2009年。
(口頭発表)
・「生きる文脈の交錯する現場から:開発プロジェクトで<利用される>」第7回オータム・セミナー・セッションA「アクションを待つフィールド」(研究代表:飯嶋秀治)、日本文化人類学会九州/沖縄地区懇談会・九州人類学研究会主催、サン・ヴィレッジ茜、2008年10月25日。
・「トランスローカル・アートの可能性:<第四世界的状況>の民族誌へ」日本文化人類学会第42回研究大会、京都大学、2008年6月1日。
・「人類学的営為の未知数性:開発援助のローカルな現場で暗中模索する」現代人類学研究会、東京大学、2008年9月27日。
・「<第四世界>の新たな記述へむけて」国立民族学博物館共同研究会「生の複雑性をめぐる人類学的研究:第四世界の新たな記述にむけて」国立民族学博物館、2008年10月11日。
■國弘暁子
(著書)
・『ヒンドゥー女神の帰依者ヒジュラ:宗教・ジェンダー境界域の人類学』風響社、2009年。
(論文)
・「『ストリート』を経験する:ヒンドゥー女神バフチャラー信仰とヒジュラ」関根康正編『ストリートの人類学 上巻』(SER80)国立民族学博物館、289-312頁、2009年。
・「(書評)REDDY, GAYATRI. 2005 With Respect To Sex: Negotiating Hijra identity in South India.」『社会人類学年報』34号、221-227頁、2008年。
(口頭発表)
・「異装を纏う:『第四世界的状況』の民族誌へ」日本文化人類学会第42回研究大会、京都大学、2008年6月1日。
・「『結婚』しないヒジュラの生き方」『ミニ・シンポジウム2「シングル」の視点で社会をみる:人類学的試論』椙山女学園大学、2008年11月8日。
■木村自
(論文)
・「離散と集合の雲南ムスリム:ネーション・ハイブリディティ・地縁血縁としてのディアスポラ」臼杵陽・赤尾光春・早尾貴紀編著『ディアスポラから世界を読む』明石書店、2009年。
・「台湾回民のエスニシティと宗教:中華民国の主体から台湾の移民へ」『国立民族学博物館調査報告書』(SER83)国立民族学博物館、69-88頁、2009年。
・「中国雲南省における経堂教育:魏山県永建鎮を中心に」関西大学文化交渉学教育研究拠点紀要『文化交渉学研究』第2号、245-258頁、2009年3月。
・「『夷地』像の相克:上ミャンマーにおける雲南ムスリム移民の憑依現象を事例として」『第1回 次世代国際学術フォーラム「境界面における文化の再生産」報告書』関西大学文化交渉学教育研究拠点、73-87頁、2009年3月。
・「旅缅云南穆斯林移民的民间习俗初探」「海上交通与伊斯兰文化」学术研讨会论文集中国海外交通史研究会、196-202頁、2008年11月。
・「越境すること、『身分』を得ること李大媽の物語」国立民族学博物館共同研究会「国籍とパスポートの人類学」シンポジウム、国立民族学博物館、2008年3月8日。
・“Managing the Image of “Yi di (Barbarian Area)”: From the Case Study of Spirit Possession among Yunnanese Muslims Migrants in Burma”The 1st International Academic Forum for the Next Generation(Kansai University)“Cultural Reproduction on its Interface: From the Perspectives of Text, Diplomacy, Otherness, and Tea in East Asia”,December 13, 2008.
■朝日由実子
(論文)
・「『エスニック・タウン』の誕生とストリート:ロサンゼルスのカンボジア・タウンの事例から」関根康正編『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、327-365頁、2009年。
・「各国便りカンボジア: カンボジアの市場経済化とファッション産業事情」『かけはし』(JITCO JOURNAL)vol.90、10-13頁、2009年2月。
■山田香織
(著書)
・『(博士論文)フェラインの民族誌:ドイツ・バイエルン州のローカル・アソシエーション』総合研究大学院大学文化科学研究科提出、2009年。
(論文)
・「ローカリティのあらわれの場としてのストリート―南ドイツにおける樹木儀礼の事例から」関根康正編『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、213-229頁、2009年。
■植村清加
(論文)
・「おやじといくストリート:パリのチュニジア人たちのカフェ通いから」関根康正編『ストリートの人類学 下巻』(SER81)国立民族学博物館、367-403頁、2009年。
・「パリ郊外の移民たち:ある女性の生き方から」『Field+』No.1〔創刊号〕、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、4頁、2009年1月。
(口頭発表)
・「パリに暮らす移民のシングル」比較家族史学会ミニシンポジウム「『シングル』の視点で社会をみる:人類学的試論」比較家族史学会研究大会第51回大会、椙山女学園大学、2008年11月8日。
・「フランス・マグレブ系移民の変奏する生活実践:第四世界的状況の記述にむけて」国立民族学博物館共同研究会「生の複雑性をめぐる人類学的研究」成城大学、2008年12月23日。
2007年度成果報告
今年度は以下のメンバーが現地調査を実施し、世界各地のトランスナショナリズム下のストリート状況に関する知見を広げ深めた。関根康正:南インド・チェンナイ市での都市計画とそのストリートの歩道空間の実態を調査し、スペキュタクラー化という問題を分析した。鈴木裕之:アビジャンにおいて、1999年末のクーデター以来、ストリート・ボーイがどう生き延びてきたかについて調査した。松本博之:オーストラリアの木曜島において現代と史資料との比較で島社会のストリート化といえる変化を読み解いた。小馬徹:長崎県壱岐の勝本の家屋とストリートの空間関係について、1970年代の変化の前後で比較し、ストリートの多義性の喪失を考察した。松田素二:民政復帰のための上院選挙が行われるタイと、王制廃止に伴う全政党参加の総選挙にむけて社会が動くネパールにおいて、選挙にかかわる路上の暴動について調査した。棚橋訓:クック諸島ラロトンガ島、オークランドで、トランスナショナルな住民の労働移動経験、世帯戦略などの実情、海浜空間とストリート空間の実態をその歴史について考察した。玉置育子:台湾台北市において、メディアにおける商品情報の状況、コスメフリーク、カモフラージュメイクの実情から化粧のストリート性を考察した。野村雅一:イタリア・ローマ、ギリシャ・テッサロニキにおいて都市ストリートの状況を人とファッションと空間の関係の中で観察分析した。朝日由実子:在米カンボジア系住民が集住するロサンゼルスにおいて、カンボジア・タウンなどのエスニック・コミュニティ空間形成について調査した。國弘暁子:インド・グジャラート州アフマダバードの都市ストリート状況に映し出される経済自由化やその反応としての宗教動向の姿を実地調査できた。山田香織:支援団体のあり方からミュンヘンのホームレス事情を調査、ミュンヘンとベルリンのストリート比較観察を行った。
2009年09月02日民博共同研究成果報告書『ストリートの人類学』(SER80,81)もくじ
関根康正 編 『ストリートの人類学』上巻(SER80)、下巻(SER81)
大阪:国立民族学博物館
購入については、国立民族学博物館ミュージアムショップから可能ですので、お問い合わせください。
まえがき
序論 「ストリートの人類学」の目標と射程
第1章 ケガレから都市の歩道へ(関根康正)
第2章 「ストリートの人類学」の提唱:ストリートという縁辺で人類学する(関根康正)
第3章 <「ストリートの人類学」の提唱>へのコメント:場所性とマナー化の視点から
(野村雅一)
第一部:問われるストリート・エスノグラフィーの方法
都市の無意識を歩く作法:アレゴリーの力
第4章 遊歩と痕跡:都市の記憶を読む技法について(近森高明)
第5章 ストリートからみる都市の無意識(南博文)
都市ストリートへのアプローチの変遷:「歩く者」と「見る者」の間で
第6章 ストリートの空間論の系譜と現在:都市地理学を中心にして(加藤政洋)
第7章 ストリートの現働化:規律-管理社会をめぐる時間地理学からの展望(加藤政洋)
第二部 今を生きるストリート・エスノグラフィーの実践
<すれ違う権力のまなざしとストリートのまなざし>路上で社会を生きる野宿者たち:男と女
第8章 Contesting the Streets: Shelter-Resistant Homeless Men and Encampments
in Japan, America and Britain(トム・ギル)
第9章 ストリートで生きる女性たち:女性野宿者の実践(丸山里美)
どこにも向かわないストリートの時空:希望なき希望
第10章 道草を食う:Twan Yang "Houseboy In India"より(磯田和秀)
第11章 村人たちとストリート:西ティモールのアナ・ボトルにみる希望(森田良成)
社会環境を映し出す身体:見えにくい闘争の場所
第12章 ストリートに育まれる身体:チリ・サンチャゴの「貧困空間」から(内藤順子)
第13章 リングとしてのストリート:化粧を披露し、リングで闘い、化粧で紛れる人々
(玉置育子)
<ストリートが紡ぎ出す力:ハビトゥスとブリコラージュ>
生きる抗争場としてのストリート:文化・信仰という開かれた資源
第14章 「ストリート」を経験する:ヒンドゥー女神バフチャラ信仰とヒジュラ(國弘暁子)
第15章 Streets as Spaces of Contestation : Sacralization of the Urban Footpath,
with Special Reference to Pavement Shrines in Chennai City, South India
(Yasumasa SEKINE)
都市ストリートの知と暴力のスタイル:創発的共同性に向けて
第16章 ストリートで意味を生産する:アビジャンにおけるストリート文化の記号論
(鈴木裕之)
第17章 隠語からプロパガンダ言語へ:シェン語のストリート性とその発展的変成(小馬徹)
第18章 暴力の舞台としてのストリート:2007-8年ケニア・ポスト選挙暴動を事例として
(松田素二)
第三部 歴史の中のストリートとトランスローカリティ
<歴史と記憶を生きる眼差しから見る現代の場所性>歴史の中のストリート概念の変遷:近代を相対化する深い場所(垂直性)
第19章 ストリートとコミュニティ:博多の事例から考える(竹沢尚一郎)
第20章 The Street as a Changing Social Arena in Medieval Europe
(ハラルド・クラインシュミット)
第21章 北京の小さな橋-街角のグローバル・ヒストリー(妹尾達彦)
変容するローカルな場所性とせめぎ合う眼差し:記憶と現在の間
第22章 青果物卸売市場の「いま」と「あの頃」:
新潟県長岡市の地方卸売市場における「場所性」の変容を焦点として(鈴木晋介)
第23章 ローカリティのあらわれの場としてのストリート:
南ドイツにおける樹木儀礼の事例から(山田香織)
第24章 オーストラリア・トレス海峡の二つの海:
先住民族の「場所性」と主流社会の「正当性」(松本博之)
第25章 ストリートとストリーム―ポリネシアでストリート現象を考えるための覚書(棚橋訓)
<トランスナショナル・フローとローカリティの組み換え的創造>
構築される移民空間のローカリティとストリート性
第26章 パッケージ化と脱パッケージ化との間での生きる場の創造、あるいは「組み換えのロー
カリティ」:「資本としての知識」から「資源としての知識」への視点の移行がもたら
すもの(関根康正)
第27章 チャイナタウンからグローバル・シティへ:
パプアニューギニア華人にとってのストリート経験(市川哲)
第28章 『エスニック・タウン』の誕生とストリート:LAのカンボジア・タウンの事例から
(朝日由実子)
第29章 おやじといくストリート:パリのチュニジア人たちのカフェ通いから(植村清加)
ポスト社会主義状況のローカリティとストリート性
第30章 ポスト社会主義のストリート:モンゴル・ウランバートル市における都市空間の再編
(西垣有)
第31章 ハイカルチャー化するサブカルチャー?:
ポスト社会主義モンゴルにおけるポピュラー音楽とストリート文化(島村一平)
結論と展望:なおも、<生きられる場>を穿つために
ネオリベラリズムに抗する<生きられる文化>の創造
第32章「後背地論から見たストリート」(阿部年晴)
第33章 生活の場としてのストリートのために:流動性と恒常性の対立を超えて(小田亮)
総括
結章 総括:『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論(関根康正)
【要旨集】
■上巻SER80
第1章「ケガレから都市の歩道へ」
関根 康正(日本女子大学)
本章では、インド社会の文脈において儀礼的なケガレ観念に関する筆者自身の独創的な理論(「不浄」と「ケガレ)との区別の導入)から、都市ストリート特にインドの巨大都市のストリートの縁辺の歩道空間(政治、経済、宗教などあらゆる生活活動が認められる活発な空間)に注目する現在の関心事への問題意識の展開の軌跡をまず記述する。この一見異なる関心の外装とは裏腹に、その両者には<中心化志向の視点と脱中心化志向の視点との絡み合った共存>という共通した理論的枠組みが貫かれている。ケガレ理論では、否定的な意味を体現する「不浄」にだけ還元する視点を脱して、肯定的で生成的な意味をもつ「ケガレ」の視点を区別し析出できることを示した。同様に、歩道空間上に生きる社会的弱者とされる人々は単にその受動性に打ちひしがれているだけではなく、支配的な社会権力が差し出す制約的環境を逆手にとるように流用し生き残るための手段をその場その時にミクロに発明している。このような意味で、本書で検討する「ストリートの人類学」の基礎には、その基盤として筆者のケガレ論が横たわっている。
第2章「「ストリートの人類学」の提唱:ストリートという縁辺で人類学する」
関根 康正(日本女子大学)
「ストリートの人類学」の研究プロジェクトは、ネオリベラリズムとトランスナショナリズムを伴う「再帰的近代化」によって流動性をますます高める現代社会におけるストリート現象を焦点化して人類学の新たなテーマと方法論を探究するものである。このような現代社会は単に流動し平準化する社会であるわけではなく、流動は人々を競争にさらすことであり、そこでの敗者は排除的に管理される必要がある。現代の流動性を駆動するメディアの増殖はそうした敗者の管理にも駆使される。これがドゥルーズの言う「管理社会」である。現代のストリート現象は、必ず敗者のうごめきをその内に含んでおり、そういう場所は排除的に管理されている。すなわち敗者として抑圧され、さらにその事実はないがごとく隠蔽される。二重の隠蔽である。したがって、まずは、何がストリート現象の内容であり、どこにそれが現象しているかを画定することがまず大事である。その後に、そのストリート現象について、中央と周辺との間の権力関係を考慮した体系的な民族誌的記述を紡ぐことである。しかも、この民族誌記述で肝要なことは、権力中心からの眼差しの反映である「周辺」を、その同じ場所でその縁辺の場所から中心を見返す「境界」という視点・眼差しによって読み換えることにある。そこにネオリベラリズム傾向への基底的な抵抗のあり方を描出することが意図され、それが新しい人類学の可能性を切り開く者と期待される。
第3章「<「ストリートの人類学」の提唱>へのコメント:場所性とマナー化の視点から」
野村 雅一(総合研究大学院大学)
『民博通信』116号の特集<ストリートの人類学>は驚くほどよくできている。民博の「ストリートの人類学」研究会の前身である、同じく民博の「<都市的なるもの>とは何か?」研究会との連続性も、そこでは明確に読み取れ、さらに月刊『みんぱく』2004年8月号の特集「ストリートのいま」と合わせて読むと、これまでこのストリート研究会がなにをやってきたか、だいたいわかるようにまとめられている。
第4章「遊歩と痕跡――都市の記憶を読む技法について」
近森 高明(日本女子大学)
本稿は、W.ベンヤミンの都市論に描かれる遊歩者の〈陶酔〉について、その理論的な意義を〈痕跡〉という概念のもとで読み解く試みである。都市の記憶の深層に触れる行為としての陶酔的遊歩――その内実を照らしだすためにベンヤミンの二つの思考ライン、すなわち類似性を含むイメージやミメーシス能力の問題がかかわる言語哲学のラインと、プルースト的な無意志的記憶やフロイト精神分析の問題が結びつく記憶論のラインをたどりつつ、両者が収斂する地点に痕跡概念が位置することを論証してゆく。その過程をつうじて陶酔的遊歩は、街路上で痕跡を蒐集し、その歪みに含まれる謎をミメーシス的に判読するなかで、忘却された過去を想起する行為として再構成される。〈読むこと〉〈想起すること〉〈迷うこと〉という三つの契機からなる、痕跡のもとでの陶酔的遊歩からは、ストリート現象をめぐる認識と存在の方法への示唆を受けとることができると結論づけられる。
第5章 「ストリートからみる都市の無意識」
南 博文(九州大学)
ストリートとはどのような場所であるのか、それが人間と相互に交渉しあう様式はどのようなものであるのかについて、広島市の再開発の事例、アジア都市での屋台のフィールドワーク、そして9/11後のニューヨーク市における筆者の分析的体験および遊歩の実践事例を報告し、環境心理学と深層心理学とを融合する「都市の精神分析」の立場からストリートに潜む「都市の無意識」を顕在化する仕方について考察した。ベンヤミンの「遊歩」の概念は、このような試みにおいて、都市との分析的セッションを導く方法論の一つとして位置づけられ、環境の無意識が遊歩者の無意識と「出会い」、例えば写真という形で射影される都市による自らのプレゼンテーション(自己提示)であると捉えられた。これは、都市のみる夢の形象化の一端であると考えられ、ここから都市の無意識に接近する経路が得られ、それらは全体としては自由連想の方法論の一環として理論化された。このような分析によって捉えられたヒロシマは、平和公園という空間のデザインにおいて、それ以前の都市の生活世界を抑圧しており、その土地における記憶は、replaceされdisplaceされたものと解釈される。
第6章「ストリートの空間論の系譜と現在――都市地理学を中心にして」
加藤 政洋(立命館大学)
本稿は、これまでの主たる都市論のなかから〈ストリート〉との関連が深い論考を選り抜き、それぞれの参照・影響関係や同時代性を考慮しながら、都市地理学のオルタナティヴとして系譜学的にまとめたものである。ここで〈ストリート〉との関連が深いというのは、〈ストリート〉を対象として扱うというよりは、むしろ〈ストリート〉における空間の経験、場所感覚を拠り所としながら都市を論じ、表象する実践全体を指している。なかでも特に注目したのが、ヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・ド・セルトー、シチュアシオニスト、デイヴィド・ハーヴェイ、ロサンゼルス学派の都市論であり、それらにド・セルトーの戦術/戦略論、アンリ・ルフェーブルの空間の生産論、そして地理学的想像力(ハーヴェイ)、認知地図作成(フレドリク・ジェイムソン)、グローバルな場所感覚(ドリーン・マッシー)、状況に置かれた知(ダナ・ハラウェイ)といったグローバル化時代の空間的想像力にまつわる議論を接ぎ木することで、ストリートにおける生きられた経験を起点とする都市論の可能性を展望する。
第7章「ストリートの現働化――規律-管理社会をめぐる時間地理学からの展望」
加藤 政洋(立命館大学)
本稿は規律社会から管理社会への移行について、時間地理学の観点からその特徴を明らかにするものである。時間地理学はスウェーデンの地理学者トルステン・ヘーゲルストランドによって提唱された概念・分析枠組みであり、人間の行動を時間・空間スケールを問わずに図化できる特長を持つ。そして人間の行動を制約する諸要素と空間特性から行動パターンを考察するのであるが、本稿では空間特性のなかでも「管理領域」と称される概念を用いることで、規律社会から管理社会へと移行するなかで生じた(主体化のプロセスを含む)社会-空間変容を明らかにする。そして最後に、管理社会の「隙間」をストリートと措定し、管理を逃れる「外部」ないし〈事件〉の創出についても考察する。
第8章「闘争空間としてのストリート――シェルターを拒否するホームレスの日・米・英比較研究」
トム・ギル(明治学院大学国際学部)
この論文集のなかで関根が指摘するように、ストリートは闘争の空間である。それはその時々のコンテクストによって様々な形態をとるが、本論文は文字通り路上をめぐる闘争について論じる。すなわち、都市環境においてホームレスの人々とその他の当事者―社会の主流をなす人々と都市当局―との間に起こる争いである。日本、米国、英国での事例研究に基づき、21世紀の工業都市において、路上やその他の公共空間で暮らすという難題に対する個人や集団の反応をここでは検討している。ホームレスの人々は現代の都市社会の受動的被害者であるとしばしば表現されるが、現実には、彼らは自治体と頻繁にやりとりするなかで、しぶしぶ調停に応じることもあれば、積極的に抵抗することもあり、その戦術は実に多彩と言えるのである。
第9章「ストリートで生きる女性たち――女性野宿者の実践」
丸山 里美(日本学術振興会特別研究員PD・東洋大学)
日本のストリートを生活の場にする野宿者を対象とした研究においては、野宿者を怠け者で更正が必要な人だとする客体化を批判して、野宿者自身による主体的な抵抗や労働する姿を強調するものが多い。だがこう主張するとき、働いて自立する規範的な男性野宿者像が暗黙のうちに前提とされてしまっている。
本稿では女性野宿者の生活実践をとりあげている。彼女たちの労働は家事など現金収入につながらないために、身近な他者に大きく依存せざるをえない場合が多い。野宿を続けるか否かを決めるときも、こうした関係性に責任を感じた結果、それに依存しながら決定していくなど、男性野宿者とは異なる生活世界を生きていた。
ここから見えてくるのは、合理的に行為を選択する自立した主体を前提にするのとは異なる、他者との関係性にひらかれたストリートの経験である。それはまた、野宿する姿に抵抗を読み込もうとする研究者のポジションの問い直しでもあるだろう。
第10章「道草を食う――Twan Yang “Houseboy In India”より」
磯田 和秀(成城大学民俗学研究所)
道草は、効率性を優先する近代に対する批判という文脈で用いられることがしばしばある。そこでは道草は主体的な行為であり、効率の名のもとに奪われてはならない守るべきものとされている。しかし本来道草とは、従属性においておこなわれる実践であり、守るべきものというよりは、他者の場においてなんとか見出すものではないだろうか。本稿では、植民地期インドを主にハウスボーイとして旅した混血の孤児、トワンヤンの自伝"Houseboy In India"を読み解くことで、道草が他者の場における実践であることを 明らかにし、近代性批判としての対象化された道草ではない、ごくふつうの日常実践としての道草の可能性を検討する。
第11章「村人たちとストリート――西ティモールのアナ・ボトルにみる希望」
森田 良成(大阪大学大学院)
東インドネシア、ティモール島の西端に位置する町クパンでは、低開発農村地帯から出稼ぎにやってきた男たちが、廃品回収業によって現金収入を得ている。彼らは「アナ・ボトル(瓶の子)」と呼ばれる。
本稿では、都市のストリートにおけるアナ・ボトルたちの暮らしぶりについて、いくつかの情景を描写する。そのうえで、彼らがストリートにおいて見出す希望について論じる。村は都市のストリートに接続され、村人たちはストリートへとやってくる。そして彼らは、ストリートからさらにどこか先へと行こうとする。しかし、彼らのあいだでは新天地への旅立ちがたびたび熱っぽく語られはするのだが、たいていの場合は何も起きない。
ここでは、村人たちが次々に見出す希望とは、その実現可能性を問われないがゆえに希望たりえていることを示す。
第12章「ストリートに育まれる身体――チリ・サンチャゴ市の「貧困空間」から」
内藤 順子(日本学術振興会特別研究員PD・日本女子大学)
貧困者が生活の拠点とする貧困地区とは、「貧困のハビトゥス(暮らしと環境に見合った動作や身体知、身体配慮)」を身体化させる環境であり、そうした身体によって形作られたものでもある。そこは環境に適応した身体的・感覚的要素を強固にする循環があるために閉じているように見えるが、じつは閉じることのない貧困空間の母船のような場所と考えられる。グローバル化が進むにつれて、貧困者は資源を求めて、生活拠点ではない富裕地区を彷徨うようになる。貧困が都市を浮遊して覆うかのように、それは母船から伸びたアメーバの偽足のようなものとしてイメージされる。
こうした貧困の母船的地区はどのような歴史的深度をもって形成され、そこで多くの時間を過ごす人びとはいかなる身体性を育んできたのか。それは貧困の母船地区の文脈と、そこに入り込んでくる文脈をつぶさに見て、考えてゆくことでしか可能にならない。われわれの未来が過去、現在と切り離せないように、貧困母船地区で多くの時間をすごす貧困者もまた同じように切り離せない過去、現在、未来という時間の流れのなかに生きている。その当たり前の生の多様さや複雑さ、彼らの暮らしの文脈や「環(境)世界」をあらためて見なおし、ストリートに育まれる身体に焦点をあてながら、チリにおける“「貧困」の問題”を問い直す。
第13章「リングとしてのストリート――化粧を披露し、リングで闘い、化粧で紛れる人々」
玉置 育子(大阪樟蔭女子大学)
ストリートで化粧をすることは忌み嫌われ、問題視されることが多い。しかし、化粧を行う本人たちにとって、ストリートとは化粧法や化粧道具を披露できる場でもあり、身支度を整える仕度部屋でもあり、仕度が整うと花道にもなり、そして、数値化できないものを競うリングになる。数値化できないものを争う中で中村うさぎは「土俵から降りると自分の居場所がなくなるのではないか」、「降りると白いカラスになってしまうのではないか」と不安を語り、リングがあるから自分が存在できると語る。
しかし、誰もがリングに参戦したいわけではない。ストリートというリングで生き残る手段として顔に傷や痣を隠し、カモフラージュさせる化粧法自分の存在をその他大勢に埋没させる、紛らわせる方法もある。
化粧は、自分の存在を紛わせさすことができる隠れ蓑にもなり、生きる為の切実な手段の一つでもある。
第14章「「ストリート」を経験する――ヒンドゥー女神バフチャラ信仰とヒジュラ」
國弘 暁子(お茶の水女子大学大学院)
本稿は、「この世」と「あの世」を象徴的につなぐ女神寺院を「ストリート」と称し、その場に集うヒジュラと参詣者との関係性、及び、ヒジュラと女神寺院との関わりについて論じる。ヒジュラとは、男性としての世俗的生を放棄して、女神に帰依する「無縁」人として生き、世俗の人々に女神の恩寵を授ける役割を担う。ヒジュラとしての生き方は、世俗的規範から逸脱するため、一般に理解し難い存在と見なされているが、しかし、女神寺院という「ストリート」では、ヒジュラは女神により近い存在として参詣者から歓待される地位を獲得する。この時、ヒジュラと参詣者との間には、「関係的同一性」にもとづく、具体的な「もう一つのストリート」が創発する。
第15章「都市の歩道空間の聖化にみる抗争場としてのストリート――南インドチェンナイ市における歩道寺院を事例に」
関根 康正(日本女子大学)
都市の歩道空間をめぐって、異なる利害を有する二つのアクターが抗争している。一つは、市行政権力であり、都市計画を実践という観点から歩道を歩行者のために維持管理する。他方、追い立ての恐れの中で歩道を不法占拠し生活の場にするホームレスの貧困者たちである。前者は公空間である歩道を占拠させまいと力を行使する立場にあるし、後者はそれに抗して歩道上で生活基盤の確保に勤しむという反対の立場に生きる。本稿では、様々な歩道空間での活動なかでもきわめて明確に目を惹く実践である「歩道寺院」活動を焦点化する。この動きは50年を超える歴史があることが分かっているが、とりわけ1990年代以降急増しており、チェンナイ市の全体に拡がった一般的現象になっている。これらの歩道寺院は大方が社会的に下層の人々によって開始され建設が進められている。歩道寺院は明らかに、神の名においてその空間を聖化し、その力によって行政権力に抵抗する砦にしている。その意味で、下から歩道寺院建設も不利な境遇を生き抜く戦術としての「弱者の武器」なのである。この民族誌的事例は聖なるものという動態的な観念の醸成に関しての理論的な示唆を有している。すなわち、主流価値(支配イデオロギー)が占める社会空間の縁辺、そこは順法空間と不法空間との境界としてせり上がってきて、他者性として俗なる自己を超えた聖性を帯びる可能性が出てくる。その潜在性に賭けたのが、歩道寺院建設という下からの活動であった。そこは、主流価値の不在によってその存在を顕現し、実のところ主流価値に備給する故に駆逐しにくい場所になる。いわば生に対する死の隠喩にあたるヘテロトピアとなる。ヴェイコ・アントネンが指摘する事に通じるが、聖なるものという観念は、この意味で境界をめぐる認識的な次元の視点からの考察無くしてその捻れた動態を把握できない。
第16章「ストリートで意味を生産する――アビジャンにおけるストリート文化の記号論」
鈴木 裕之(国士舘大学)
本論文では、コート・ジヴォワール共和国の大都市アビジャンで生成するストリート文化についての記号論的分析を試みる。ストリートという閉じられたコミュニケーション空間において、ストリート・ボーイたちは独自の意味世界を生きている。ストリートの現実はスラングによって分節化され、意味づけられ、体系づけられてゆくが、その様態を人間分類と空間認識について具体的に考察する。そしてそのプロセスの中で形成される独自の価値体系と、その価値観に沿った具体的な行為との関係を、ラングとパロールの概念を援用して分析する。さらに、アビジャンのストリート文化がマスメディアから取りいれた要素で溢れている状況に注目しながら、ブリコラージュの概念を用いて、ストリートで意味が生産されるメカニズムについての考察を試みながら、ストリート文化がストリート・ボーイたちの知的活動の所産であることを示す。
第17章「隠語からプロパガンダ言語へ――シェン語のストリート性とその発展的変成」
小馬 徹(神奈川大学)
スワヒリ語を母胎として英語と諸民族語を取り入れ、ここ30-40年の内にナイロビで生まれた都市混成語であるシェン語は、当初、ストリート・チルドレンの言葉とされた。だが、対抗的な社会上層のシェン語方言が生まれたことも手伝って、やがて学生のアイデンティティ・マーカーとなる。1990年代にFM放送が自由化されると、この言語を操る放送人の人気が沸騰して一挙に全国に普及し、エイズ撲滅や民主化の運動に使われると目覚しい発展を遂げた。だがケニア政府は、近年、シェン語を公用語(英語とスワヒリ語)に対する最大の脅威と見なして抑圧政策を採ったとされ、実際、放送でシェン語が聞かれる機会はずっと少なくなった。ただし、グローバリズムの真っ只中、ケニアの有力企業の拡販キャンペーン、特に新聞広告ではシェン語が多用され、むしろ重要性を高めている。本稿は、シェン語の生成過程とストリート言語としての特性を概観したうえで、新聞広告で使われたシェン語のキャッチフレーズの具体的な事例の分析から、この言語のストリート性の最近の急激な変質の実態と、その社会的な意味を明らかにする。
第18章「暴力の舞台としてのストリート――2007-8年ケニア・ポスト選挙暴動を事例として」
松田 素二(京都大学)
ケニア社会では、2007年12月末の大統領選挙後、大統領派による開票結果のごまかしを糾弾して、全国各地で大衆的な抗議暴動が発生し、ケニアは一時無政府状態に陥った。一ヶ月足らずのあいだに死者一千、国内避難民60万人という大きな被害を出した。この暴動の中心的舞台になったのが、都市のストリートであった。ストリートにおける群衆の爆発的集合行動のなかには、制御しがたい多種多様でアナーキーな情動と、日常性とつらなる創発的規範とが混在している。政治的エリートは、ときにその混沌とした状況をコントロールして自らの政治的資源として活用しようとし、ときには恐怖してそれを排除あるいは安全化しようと試みる。これまでケニア社会では、この混沌状況は、民族相互の憎悪や連帯という意識を強力に動員することで、政治化されてきた。しかし、今回のストリート暴動においては、こうした固定した民族意識の上からの再生と利用という展開ではなく、「スラム」の住人がストリートで、これまでの政治化された規範や意識を乗り越えて、新たな創発的共同性を構築しようとする萌芽が確認できた。本論は、この新たに生成されつつあるストリートの暴動における共同性の可能性を探求することによって、ネオリベラリズム的統治の心性に対して抗う技法を考察することを目的としている。
■下巻SER81
第19章「ストリートとコミュニティ――博多の事例から考える」
竹沢 尚一郎(国立民族学博物館)
本稿の目的は、ストリートとコミュニティの関係を、日本の一都市としての博多の事例から考えることにある。江戸時代の博多において、ストリートを維持・管理するのは「町」であり、「町」の集合体としての博多という地域社会であった。この意味ではストリートとコミュニティは対立するものではなく、成員のコミュニケーションを可能にする場としてのストリートは、コミュニティ成立のための不可欠な要素であると同時に、コミュニティを外部に向けて開くものであった。藩経済のなかに閉じこめられた南部博多にとって、ストリートでおこなわれる実践としての祭りの開催こそ、周囲の町村から人や物資を吸引するための装置であった。そうであるがゆえに祭りは華美になる一方であり、博多の男たちの諸権力を開発・管理する「生権力」として機能していた。
明治期以降、中央集権化を進める政府のもとで博多の祭りは変容を遂げるが、その背景にあったのは、ストリートを国家管理しようとする行政の施策であり、「生権力」の独占をはかる政府の基本方針であった。ストリートでおこなう祭りという装置を通じて、独自の「生権力」の形態を作り上げていた博多という地域社会は、フーコーのいう近代に特徴的な一般的なものとしての「生権力」に取り込まれていったのである。
第20章「変容する社会的アリーナとしての中世ヨーロッパのストリート」
ハラルド・クラインシュミット(筑波大学人文社会科学研究科)
本論文ではストリートを変化する社会的アリーナと位置づけ、中世から近代初期のヨーロッパにおけるストリートに対する認識の変化、すなわちコミュニケーション・輸送・交易の場としてのストリートから社会的な安全性の規範が緩んだ場所としてのストリートへの変貌の道筋を検証する。中世から15世紀にかけて、ヨーロッパ諸都市の安全と秩序はそれ以後のどの時代よりもおそらくよく保たれていたと思われるが、実際に時代による差がどの程度あったかを検証することは難しい。それに比べれば、支配者や政府が都市の安全確保にどの程度成功していたか、あるいは失敗していたかに対する社会認識の変化を見極めることはかなり容易である。都市城壁の内と外での安全レベルに対する認識の差が縮まっていった15世紀以降、都市は次第に外界に対して門戸を開くようになり、それにつれて、都市内の一部の地区は、物乞い、放浪者、軽犯罪者などを含めた様々な人々がうろつく悪所であると見なされるようになった。また、都市が成長すればするほど、当局が都市住民の戸籍を管理したり、行動を監視したりすることは難しくなり、法を施行し秩序を維持することも困難になっていく。結果として、当時優勢であった契約主義理論にもとづく正当的政権による安全維持を要求する声があがる一方で、支配者や政府の安全維持能力が低下していると人々が感じるようになり、その差が次第に拡大していったのである。
第21章「北京の小さな橋――街角のグローバル・ヒストリー」
妹尾 達彦(中央大学)
北京の小さな橋・銀(ぎん)錠(じょう)橋(きょう)を分析事例とし、人類史の大きな流れの中に、中国大陸における橋の歴史を比較史的に位置づけることが、本稿の目的である。
橋の歴史は、道路の歴史を集約しており、世界認識の変遷に応じて変貌する。恒久的な橋は、都市と国家の誕生とともに歴史に姿を現し、都市と国家の物産と情報の流通を確保するとともに、自然界と人間界、超自然界を媒介する聖なる存在として、王権の存続に深く関わった。しかし、4世紀から7世紀における遊牧民の移動にともなう世界宗教の浸透を契機に、個人意識が芽生えて人間界の独立が本格化し、橋や道路は聖性を弱めて娯楽性を徐々に強めていく。
15世紀初頭に建築された明代北京の銀錠橋は、都市化と世俗化の進展する世相を反映するとともに、モンゴル族の創造した遊牧都市を、江南人の好む庭園都市に改造する試みの実践例だった。美しい景観を求める世俗的欲求と、モンゴル族に征服された時間と空間の記憶を相対化しようとする政権の意向は、江南風の橋と庭園を北京に建造する行為において無理なく合致する。ここに、世俗文化に支えられることで初めて存立可能な近代国家特有の政治権力の萌芽がうかがえる。そして、近代の橋は、聖と俗の交わる前近代の記憶を留めることによって、近代後の世界を先取りするのである。
第22章「青果物卸売市場の「いま」と「あの頃」――新潟県長岡市の地方卸売市場における「場所性」の変容を焦点として」
鈴木 晋介(国立民族学博物館)
本稿は、青果物流通の結節点、「卸売市場」における場所性の変容を報告する。今日、国内の青果物流通は、市場外流通の拡大や「買い手市場」への転換を背景に、錯綜化の一途にある。旧来の卸売市場制度・商いの「場所」としての市場は存在意義を問い直されている。新潟県長岡市の事例でも、セリ売りによる現物を挟んでの丁々発止のやりとりは影をひそめ、市場間転送を典型とする他市場への転売比率を高めている。
現状に呼応するように、市場の古参たちはしばしば「あの頃」を語る。モノの売買と人のつながりが重なり合いながら固有の場所に堆積していった「あの頃」、市場は濃密な’market place’(T.ベスター)だった。翻って市場の「いま」、農産物需給構造の変化や輸送・情報技術の進展に伴う青果物フローの変動は、固有の場所から遊離した新たな商空間を紡ぎ出そうとしている。卸売市場という「場所」は再編と生成の胎動局面を迎えている。
第23章「ローカリティのあらわれの場としてのストリート――南ドイツにおける樹木儀礼の事例から」
山田 香織(在ドイツ日本大使館)
ドイツ語圏でいまもさかんにおこなわれているメイポールという慣習行為は、キリスト教の展開以前のヨーロッパの宗教的古層を現在に伝えるものとして解釈されてきた。その一方で、私がフィールドワークをおこなったミュンヘン近郊のA町では、このメイポールの奪い合いをめぐって生じた1950年代の出来事を機に町内の二集落が対立し、和解に至るまでに約20年を要したという過去がある。
本稿では、メイポールの慣行を記述するとともに、この対立から和解以後までのプロセスをたどり、当事者によるこの行事の解釈の読み替えのありようを分析し、ストリートという場の意味を考える。
第24章「オーストラリア・トレス海峡の二つの海――先住民族の「場所性」と主流社会の「正当性」」
松本 博之(奈良女子大学)
ストリート性の問題とは西洋型近代(啓蒙主義的ヒューマニズム)を超えて、人間の生きられる場の復権の再考を目指すものである。西洋型近代化の一つの負の遺産は植民地化の歴史と先住民族を生み出したことである。西洋型近代化の推進力である啓蒙主義的ヒューマニズムは「人類」の公準ではなく、一つのローカルな思想である。啓蒙主義的ヒューマニズムを国是とする第一世界(入植者)の国民国家、その内部に取り込まれた第四世界としての先住民族、両者のあいだには、経済権益とともに、「場所」をめぐるせめぎ合いがある。入植者の国民国家は先住民族の生きられる場としての正統な「場所性」に公権力を通じ啓蒙主義的ヒューマニズムにもとづいた「正当性」によって介入し、ポストコロニアルな状況を生み出している。現代の先住民族による「場所性」の文化的資質と西欧型近代国民国家の正当性とのあいだに、場所をめぐる地理的想像力の大きな隔たりがある。西洋型近代化の試金石である啓蒙的ヒューマニズムを脱却し、人間性の本来的な姿である先住民族の「場所性」のパースペクティヴに感応しなければ、第一世界と第四世界とのあいだに和解の道は開けない。
第25章「ストリートとストリーム――ポリネシアでストリート現象を考えるための覚書」
棚橋 訓(お茶の水女子大学)
19世紀以降のヨーロッパ列強による植民地支配は海による「孤立」・「隔絶」・「分断」によってポリネシアの島世界を権力空間の周辺に位置づけた。一方、ポリネシアの島世界では、祖先たちが広大な海を乗り切った過去を想起しながら、個別の島景観を越えたグローバルな移動と拡散の連続に基づくストリームの歴史認識が形成されてきた。「海に生きるつながり」を核とするストリームの歴史認識は1970年代以降のポリネシアの伝統復興運動においても重要な役割を果たした。しかし、この歴史認識は1960年代以降の海外出稼ぎ労働移民の存在に由来するような、「引き裂かれたまま」に「海によってつなぎとめられた」もうひとつのストリームの歴史の現実と対照しながら理解される必要がある。以上の考察を経て、本論では、ポリネシアで「ストリート現象」を捉えるために見据えるべき場は、島世界に偏在するストリート空間ではなく、海のストリーム空間であること見いだし、複数のストリームの歴史認識が交錯する「海続き」の景観を複視の作法で捉える必要性を主張した。
第26章「パッケージ化と脱パッケージ化との間での生きる場の創造、あるいは「組み換えのローカリティ」――「資本としての知識」から「資源としての知識」への視点の移行がもたらすもの」
関根 康正(日本女子大学)
恒常性の喪失を加速するトランスナショナルな世界では、生き抜くためにストリート・ワイズにならなければのたれ死ぬ。ストリーズ・ウィスダムは、世界の移民世界にまさに血がにじむ歴史過程を経て蓄積されてきた。1990年代以降の現代社会は、明らかな移民でも難民でもない、普通にホームにいるように見える者達に、そういう知恵を要求してきている。移民・難民は文字通りの意味で私たちの先生である。
ここに示す小論では、ホームにまどろむ思考を「資本」の論理の意味確定を疑わない視点と同値できると考え、「資本」と見えるものを「資源」に差し戻すことで生まれる意味の揺らぎの視点をストリートの引き裂かれた思考に重ねている。すなわち、その差し戻しはパッケージ化に収まった知を脱パッケージ化するというストリート・ウィスダムの要点であり、そのことをハワイの南アジア系移民の信仰空間の構築の事例を中心に具体的にそうした知恵の生成メカニズムを考察する。ストリートの知として「下からのパッケージ化」という概念を提起するが、それが目指すところは実は脱パッケージ化である。ネオリベラリズム的なグローバル化がもたらす「上からのパッケージ化」を流用しながら脱パッケージ化によって自分たちの生きられる生活の場を構築する要領が「下からのパッケージ化」なのである。それは、いくつもの雑多な力の働いた競合的要素を共存的なるものへと変換するような戦術的なブリコラージュの技法を表現しており、そのような事態が展開する場所の記述分析には、「組み換えのローカリティrecombinant locality」という概念が、有用であることを結論として提唱している。こうした考察はもちろん、再帰化の中で流動性を加速させる現代を生き抜くために、そういう世界に生きられる場を穿つための戦術の知恵を学ぶために行われる。
第27章「チャイナタウンからグローバル・シティへ――パプアニューギニア華人にとってのストリート経験」
市川 哲(国立民族学博物館)
移民はトランスナショナリズムの典型例であるとされがちである。だが移民は人生の全ての時間を移動に費やしているわけではない。日常生活 のほとんどの時間は特定の国家や地域の中で営まれている。移民の生活世界を理解する際にも、日常的な居住地がもつローカリティを無視することはできない。以上の問題意識に基づき、本稿はパプアニューギニア華人の移住の特徴について考察する。ニューギニアには19世紀から華人が流入してきた。初期の華人はニューブリテン島の都市ラバウルにコミュニティを形成した。1960年代以降、華人の中にはニューギニア島南岸の都市ポートモレスビーに移り住む者があらわれるようになり、さらに1970年代からはオーストラリアに再移住する者が増加した。このようなパプアニューギニア華人の移住経験の特徴を把握するために、本稿では彼ら彼女らが連続的な移住の過程で暮らしたそれぞれの都市のストリートに注目した。それにより、トランスナショナルな存在であるとされがちである華人の経験を、個別地域のローカルな背景の中で理解することを試みた。
第28章「『エスニック・タウン』の誕生とストリート――LAのカンボジア・タウンの事例から」
朝日 由実子(上智大学大学院)
近代化やグローバル化の中での流動化現象により、特に都市社会において、人間と場とのつながりの希薄化が指摘されてきた。自分の足場の危うさに悩み苦しむ者は、日本でも増加の一途である。一方で、改めてそのつながりを意識的に再生、あるいは新しい形で築こうとする試みが世界各地で見られている。本稿で取り上げる、2007年7月3日にアメリカ合衆国ロサンゼルス郡ロングビーチ市において誕生したカンボジア・タウンの形成過程に関する事例は、その試みの一つと言えよう。アメリカにおけるカンボジア系住民の歴史は新しく、多くは1970年代以降、難民として渡った人々あるいはその2世、3世の人々であり、現在全米で約17万人を数える。アメリカ政府の分散居住政策により、当初は全米各地に分散したが、その後、再移住をし、アナハイム・ストリート(Anaheim Street)を中心としたロングビーチ市に集住化が始まる。アナハイム・ストリートには、すでにメキシコ系住民を中心とする多くの他者が居住していたが、カンボジア系コミュニティのリーダー達を中心とした「ホーム」を希求する声は抑えがたく、軋轢を生みつつも、商業的な効果を前提としてカンボジア・タウンという「名づけ」への承認を公式に取り付けるに至った。
第29章「おやじといくストリート――パリのチュニジア人たちのカフェ通いから」
植村 清加(成城大学民俗学研究所)
本稿では、パリのチュニジア人たちのカフェ通いを具体の場として、ストリートと生活の場の接合のかたちを考察する。パリは仕事を求めてやってきたチュニジア人たちが集まる移動と生活の道にあり、目的地かつ立ち寄り、滞留、立ち去りの場である。彼らが繰り返す頻繁なカフェへの出入りは、目的の曖昧な行為を多分に含みながらも、立ち寄りの反復性、多形態の店々の横断、そこに展開する社交の術とつきあい技法が存在し、人と人、店と人、店と店を結びつける雑多な接触点が蓄積されている。また、パリという都市で生活の場を築きあるいは維持する彼らが消費者や憩いの場として通過するだけでなく、店の売買が生じたり、起業に賭けるといった働きかけの場ともなっていた。本稿ではこうした空間と関係の多面性のなかで、複数の場と関係が同質化あるいはネットワーキング化されることのないまま反響し、非系統的な連関性を創出していることを明らかにした。
第30章「ポスト社会主義のストリート――モンゴル・ウランバートル市における都市空間の再編」
西垣 有(大阪大学大学院)
この論文の目的は、旧社会主義圏に位置するモンゴル国の首都ウランバートル市において、冷戦後の市場経済への移行期にあらわになった生のあり方――特に公的部門の民営化に際してあらわれた、ストリートにおける生のあり方――を考察し、その「ポスト社会主義」期に固有の様態を明らかにすることである。もちろん、ストリートは多様であり、必ずしもポスト社会主義期においてのみ形成されるわけではない。本稿では、ポスト社会主義期に固有のストリートのあり方を明らかにするために、まず、論文の前半部において、19世紀から20世紀にかけてのウランバートル市の建設に焦点をあてながら、プレ社会主義から社会主義建設期おけるストリートの変遷をとりあげ、続いて、論文の後半部において、20世紀末から21世紀初頭にかけての、社会主義時代からポスト社会主義時代への移行期にあらわになるストリートのあり様をとりあげる。
第31章「ハイカルチャー化するサブカルチャー?――ポスト社会主義モンゴルにおけるポピュラー音楽とストリート文化」
島村 一平(滋賀県立大学)
本来、ロックやヒップホップといった音楽は、イギリスやアメリカといった「中心」でサブカルチャーとして誕生した文化である。本稿では、まず、こうした「中心」におけるサブカルチャーが、「周縁」としてのポスト社会主義モンゴルにおけるポピュラー音楽を事例に、いかなる受容形態がとられているかを検討した。モンゴルにおいては、ロックやポップスが学校教育で教えられたり、ミュジーシャンが選挙ショーに参加したりする一方で、歌われる歌詞の内容を検討すると、政府批判や外国人排斥を訴えるといった事例から「ハイカルチャーか、サブカルチャーか」という二分法ではとらえられない形態をとっていることを指摘し、社会主義時代における「文化」概念と関連づけて考察した。また、本稿では、ロックやヒップホップが生まれる場としてのストリートが、モンゴルにおいては、寒冷地であるがゆえに屋内化したディスコ・クラブであることを明らかにした。こうした屋内化したストリートは、社会主義時代において、劇場やクラブという国家や党に公認された公共空間ではなく、非公式に若者が集ってギターの弾き語りをする場としての集合住宅の共用玄関であった。こうした屋内の公共空間の系譜は、遊牧民の住居ゲルがプライベート空間としての住居のみならず、ある程度の公共性をもった人々が集う社会の結節点として機能していたことに遡ることができるであろう。
第32章「覚え書き・後背地論からみたストリート」
阿部 年晴
ストリートは地域社会の存立の必然的契機であり基底である。ストリートは地域社会にとって共―公性、媒介性、超越性を帯びた空間であり、成員にとって、両義性、他性、創造性を経験する場である。それぞれの社会の人びとがストリートとどのようにかかわり、ストリートをどのように生きたかは、ストリートの習俗から知ることができる。近代において、ストリートは、近代システムの支配の下で変容して、本来の意味や機能のある部分を弱体化した。そうした部分を回復するための拠点のひとつは、ストリートが後背地や生活と出会う機会と場所である。ストリートの人類学の課題は、そこでのフィールドワークに基づいて、各レベルの地域社会と人間にとってストリートが持つ多面的な意味の認識をさらに深め、ストリートがその意味や機能や可能性をよりよく発揮するために何が必要かを明かにすることだ。
第33章「生活の場としてのストリートのために――流動性と恒常性の対立を超えて」
小田 亮(成城大学)
ストリートを日常的な秩序から解放される「出会い」の場とする見方と、それを資本主義的な流通と消費の編成によって支配された場であるとする見方がある。しかし、19世紀前半までのパリのストリートは、その二つのストリート観とは違って、人と人との日常的なつながりが作られる生活の場であり、そのつながりによって騒乱や祝祭の場ともなった。19世紀におけるパリの変貌は、ストリートが生活の場から切り離され、飼い慣らされた商品のスペクタクルの場となっていく過程だった。その過程で、「日常的な秩序から解放された人々の出会う場」というストリート・ロマン主義の幻想も作られた。現代の「リクレイム・ザ・ストリート」運動は、そのような幻想の出会いの場、一時的な解放の場を取り戻そうとするもので、ストリートは日常的な生活の場から切り離されたままとなっている。
本稿は、雑多性をもつ生活の場としてのストリートという見方を「取り戻す」ための論考である。そのために、現代の資本主義経済が消し去ろうとしている関係性の複数性・過剰性に焦点をあて、レヴィ=ストロースのいう真正性の水準においては、それによって、商品のスペクタクルと治安のための「条里空間」としての都市空間が、「平滑空間」へと変えられていることを示す。
2007年度・関連プロジェクト民博共同研究「ストリートの人類学」の成果報告
2007年度・関連プロジェクト・民博共同研究「ストリートの人類学」成果報告
ストリートの人類学は、脱ネオリベラリズムを標榜し、知らぬ間に自分が自分で首を絞めていくような自己監査文化(audit cultures)の檻の中に現実生活を閉じこめていく主流傾向に歯止めをかける意図を有している。この排他的な「高度均質化」に抗する道は、雑多なものの葛藤と共存によって生産されてきたローカル・ノレッジやストリート・ノレッジが果たしてきた役割を注視し、固有の現実に即したその場に固有の解決策の形で突き返す必要がある。ネオリベラリズムは、ドゥルーズの言う管理型権力の社会に対応する。そこでは、ホームとストリートの断絶は、格差の上下に配分されたコミュニティ分割という形に対応して深くなってきている。今日のストリートは、したがってこの分離した二つのコミュニティの無関係の関係をまさに反映している。その両者が、共在による影響関係はあるけれど、それぞれの世界でのサバイバルに、それぞれのやり方で対処している。この意味で、ローカルなものとストリートには共通点がある。どちらも主流権力から押し込まれた空間である。ローカルなものは、グローバル権力によって押し込まれ、ストリートはホーム権力によって押し込まれる。その意味でどちらもサバルタンの生きる縁辺空間となる可能性のある場所である。縁辺の場での生活は様々な主流の圧力のかかる受動的状況の中での抗争contestationであり、不安定で持続しにくいブリコルールの生活構築サバイバルが展開する。この縁辺・隙間は自立した空間ではない。主流空間のすぐ脇に寄生して張り付くように存在する場であり、主流社会の強い空間の意味づけを前提にした流用の所作が見いだせる場所ということである。ストリートな場所はしたがって、主流の流れをすでにエネルギーにしているし、それ無しには成り立たない。そういう縁辺・隙間なのである。勝利の力のネガのようにへばりつく敗北の位置を元手に生き延びる場所のことである。インドで言えば、幹線道路の中央の車道と端の歩道との両方があってはじめてストリートな場所は生成している。この抗争的な接点がなければ、道であってもここでの議論の対象としてのストリートな場所にはならない。現代日本であれば、歩道も殆ど主流の力で抑えられているから、インドの歩道に当たる接点的な流用空間が、公園や安いカフェに見えにくくずれ込むのである。
しかし、私たちの試みは、主流秩序からは無秩序として消去・排除の対象になった様相のなかに、不均質な雑多さを当然視するような「敗北したストリート」の生活世界にあったろう<都市的なるもの>、つまりセネット的な意味での「無秩序の活用」[セネット 1975]に再び光を当ててみることにある。そのときは、主流秩序が取り込んだビオスの生が覆う世界においてもなおある穴ぼこや隙間にゾーエーの野生の生を掘りあて、そこからとって返して生活秩序を組み直すような境界的思考が求められるにちがいない。そこでは、活用と言えないような活用、streetwiseとも言えないstreetwiseまで射程に入れる必要があるに違いない。そのために、イデオロギー・レベルでの主流の価値意識・言語の単なる否定や反転ではなく、生活感覚や生活感情という身体性を基盤にした「全体的理解」に基づく根本的反省が必要に違いない。そこに、主流言語が自然化した形で実践されてしまう構造的差別つまり「三者関係の差別」を無効化するような視点転換を促してくれる、ストリートの本格的なエスノグラフィーが待たれる理由がある。
私の定義での意味での縁辺を繋いでいくストリートは、戦術的努力と偶然とともに生起する共同性の渦という<場所place>を創出するだろう。しかし、それは本質化できるような条理的な場所ではなく、平滑化と条理化とのせめぎ合いの中に生まれる渦として存在するのである。
2007年度研究業績一覧(代表者・分担者・研究協力者)
【研究代表】
■関根康正
・「なぜ現代社会でケガレ観念を問うか:現代社会における伝統文化の再文脈化」『排除する社会・受容する社会:現代ケガレ論』(関根康正、新谷尚紀共編)吉川弘文館、2007年。
・「『資本としての知識』から『資源としての知識』への視点の移行がもたらすもの」『資源人類学 第3巻・知識資源の陰と陽』(C.ダニエルス責任編集)弘文堂、2007年。
・「『ストリートの人類学』という構想」『都市文化理論の構築に向けて』(大阪市立大学都市文化研究センター編)清文堂、2008年。
【研究分担者】
■小田 亮
(口頭発表)
・「共同体概念の脱構築と再構築」「東南アジア大陸部における生成的コミュニティ」研究会(研究代表者:田邉繁治)大谷大学、2007年7月。
・「アイデンティティ・ポリティクスと共同体」成城大学民俗学研究所研究プロジェクト「『共同体』と『地域』という概念の再検討」(研究代表者:小田亮)、成城大学、2007年12月。
(著書)阿倍年晴・小田亮・近藤英俊編『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』風響社、2007年5月。
(論文)
・「まえがき」阿倍年晴・小田亮・近藤英俊編『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』pp.1-8、風響社、2007年5月。
・「呪術・憑依・ブリコラージュ:真正性の水準とアイデンティティ」阿倍年晴・小田亮・近藤英俊編『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』pp.179-200、風響社、2007年5月。
・「網野善彦を文化人類学的に読み解く」『大航海』65号、150-155頁、2008年1月。
■松本博之
(論文)
・「奈良女子大学生の日常生活と奈良の景観、あるいは景観以前―行為論的アプローチに向けての資料化の試み」 松本博之編『奈良盆地における景観の再評価に関する基礎的研究』(科学研究費補助金研究成果報告書)奈良女子大学、115-133. 2007.
・「近代流通か、それとも贈与か―オーストラリア・トレス海峡諸島先住民社会の内旋的適応」 岸上伸啓編『先住民による海洋資源の流通と管理』(科学研究費補助金研究成果報告書) 国立民族学博物館、2007.
・「第四世界における贈与交換の展開―トレス海峡諸島先住民社会の内旋的適応」 岸上伸啓編『海洋資源の流通と管理の人類学』(第11章)明石書店(印刷中)。
■鈴木裕之
(口頭発表)
「ポピュラー音楽における「アフロ(アフリカ)性」を再考する」(ワークショップにおける共同発表)、日本ポピュラー音楽学会第19回大会、於名古屋大学、2007年12月9日。
(論文)
・「ギニアの国家建設:セク・トゥレによるユニークな文化政策」池谷・佐藤・竹内(編)『朝倉世界地理講座:大地と人間の物語11:アフリカ1』朝倉書店、pp351-361、2007年4月10日。
・「ギニアにおけるグリオの変化と継続性:近代化に直面するあるグリオ一族の事例」平成17年度~平成19年科学研究費補助金(基盤研究(A))研究成果報告書 『アフリカの地域社会における無形文化財のありかた』(課題番号17251016、研究代表者 川田順造)号数:掲載頁:pp14-22、2008年3月28日
■棚橋訓
(口頭発表)
・「コメント:第四世界的状況の人類学」、分科会「第四世界考―フィールドはいかに記述できるのか」(研究代表:内藤順子)、日本文化人類学会第41回研究大会、名古屋大学、2007年6月。
[組織・司会・コメンテータ担当]、国際シンポジウム「「男性同性愛者」のセクシャリティから「男性」ジェンダーを見る―アジアにおけるHIV/AIDS問題の視点から」、お茶の水女子大学21世紀COEプログラム「ジェンダー研究のフロンティア」、お茶の水女子大学、2007年12月。
・「島世界、地球温暖化、ジェンダー―文化人類学的アプローチの可能性」、お茶の水女子大学大学院ジェンダー学際研究専攻2007年度第3回Brown Bag Series、お茶の水女子大学、2007年6月。
・「地図の力―Leonard Masonの“Laura Report”を読む」、日本貿易振興機構アジア経済研究所研究会「太平洋島嶼諸国の知と権力」、アジア経済研究所、2007年11月。
・“On Contemporary Japanese Masculinity”、文京学院大学平成19年度国際連携教育プログラム連続講演「Japanese Society」、文京学院大学、2007年11月。
(著書)
・本多俊和・棚橋訓・三尾裕子(共編著)、『人類の歴史・地球の現在―文化人類学へのいざない』、放送大学教育振興会、全227頁、2007年4月。
・棚橋訓、「歴史考古学と文化人類学」、鈴木公雄ゼミナール(編)『近世・近現代考古学入門―「新しい時代の考古学」の方法と実践』、慶應義塾大学出版会、281-283頁、2007年10月。
・新ヶ江章友・棚橋訓(共編著)『「男性同性愛者」のセクシャリティから「男性」ジェンダーを見る ―アジアにおけるHIV/AIDS問題の視点から(F-GENS Publication Series No.33)』お茶の水女子大学21世紀COEプログラム「ジェンダー研究のフロンティア」全103頁、2008年3月。
(論文)「地図の力―レナード・メイソンの『ローラ・レポート』を読む」、塩田光喜(編)『オセアニアにおける知と権力』、日本貿易振興機構アジア経済研究所、101-117頁、2008年3月。
■松田素二
(論文)
・「複数化する間身体:現代ケニアのムンギギ・セクトを事例として」菅原和孝編『身体資源の人類学』弘文堂,231-59,2007.
・「21世紀世界におけるアフリカの位置:アフリカに学ぶ、社会を癒す知恵」松原正毅編『2010年代 世界の不安、日本の課題』総合研究開発機構,477-494.
・「過去の傷はいかにして癒されるか:被害を物語る力の可能性」棚瀬孝雄編『市民社会と責任』有斐閣,111-138, 2007.
・「周辺からの声」内堀基光、スチュアート・ヘンリ編『文化人類学』放送大学教育振興会 172~188, 2008.
・「グローバル化時代における共同体の再想像について」『哲学研究』(印刷中)
■トム・ギル
(口頭発表)
・“The Birth of Shelter Culture in 21st Century Japan”Meiji Gakuin / University of California Seminar, June 25, 2007
・“Homeless Japan: The Birth of Shelter Culture”Yale University Center for East Asian Studies, Japan Anthropology Colloquium, November 2, 2007
・“Responses to Homelessness in Japan, the United States and Britain – an Anthropological Approach”Abe Fellows’ Retreat, Hilton Hotel, Cocoa Beach, Florida, January 21, 2008
・“The Meaning of Self-Reliance for Homeless Japanese Men”
Symposium on Masculinities in Japan, Santa Barbara, February 1, 2008
・“Declarations of Dependence and Independence: Homeless Narratives in Japan and America”
University of California at Santa Barbara, March 4 2008
■玉置育子
(口頭発表)
・「雑誌「主婦の友」の記事“美容相談”から見る美容への関心」、玉置育子・横川公子(大阪樟蔭女子大学・武庫川女子大学)第12回 日本顔学会 於:日本大学 2007年9月29日
・「人生をデザインする-化粧ボランティア活動を通じて-」生活デザイン小研究会 於:武庫川女子大学、生活美学研究所 2008年2月16日
(論文)「化粧に対する意識の地域差―佐賀県と大阪府のグループ比較―」『佐賀女子短期大学紀要第42集』PP39-46、2008年3月、永柄真澄、杉本国子、玉置育子(佐賀女子短期大学、佐賀女子短期大学、大阪樟蔭女子大学)
■近森高明
(論文)・「都市への哲学的散策:W.ベンヤミン『パサージュ論』」井上俊・伊藤公雄編『社会学ベーシックス 第4巻 都市的世界』世界思想社、2008年(刊行予定).
■加藤政洋
(論文)
・「都市編成と『植民地なき植民地主義』」『立命館言語文化研究』第19巻第1号、117-129頁、2007年。
・「ポストバブル期の都市再編を読むには?」『10+1』(INAX出版)第49号、124-125頁、2007年。
【研究協力者】
■阿部年晴
(著書)共編著:阿倍年晴・小田亮・近藤英俊編『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』風響社、2007年5月
(論文)「エピローグ:後背地から」阿倍年晴・小田亮・近藤英俊編『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』風響社、2007年5月
(発表)「コメント:第四世界的状況の人類学」、分科会「第四世界考―フィールドはいかに記述できるのか」、日本文化人類学会第41回研究大会、名古屋大学、2007年6月。
■朝日由実子
(論文)
・「カンボジアにおける消費社会の到来と高級染織の興隆:衣服としての高級絹絣ホールの変化と衣装カタログ雑誌の誕生」『カンボジアの文化復興(22)』上智大学アジア人材養成センター(校正中)。
・「手織物産業の発展と女性労働形態の多様化:非農業活動の役割から見るカンボジア農村社会の変容」『2004年度次世代リーダーフェローシップ研修報告書』国際交流基金(印刷中)。
(口頭発表)
・「『衣』からみる東南アジアとカンボジア:布の役割とその変化」『クメール学研究会』(於:上智大学)2007年5月28日
・「カンボジアにおける消費社会の到来と高級染織の興隆:高級絹緯(よこ)絣『ホール』を中心に」『第41回日本文化人類学会研究大会』(於:名古屋大学)2007年6月2日。
・「カンボジアにおける伝統染織関連産業の興隆:消費社会化、グローバル化による影響を中心に」『第1回「大陸部新時代」研究会(カンボジア特集)』(於:京都大学東南アジア研究所)2007年11月3日。
・「カンボジアにおける市場経済化と伝統的服飾産業の発展」『グローバル・スタディーズ研究科 大学院生・次世代研究者ワークショップ第1回グローバル化のなかのカンボジア:1980年代以降の政治・経済・社会の変容』(於:上智大学)2007年11月23日。
■市川哲
(口頭発表)
・「トランスナショナルな社会空間におけるエスニシティ―パプアニューギニアの華人を事例として―」日本華僑華人学会第5回大会、パネル「中国系移民の土着化・クレオール化・華人化についての歴史人類学」(パネル代表:三尾裕子・東京外国語大学)、於・慶應義塾大学(2007.11.17)
・「パプアニューギニア、ニューアイルランド島の華人にとっての『伝統文化』とローカリティ」民族藝術学会第108回例会、於・国立民族学博物館(2007.11.3)。
・'Diversification of Ethnic Chinese Identities inTransnational Social Space: Comparative Studies of Malaysian Chinese and Papua New Guinean Chinese' at "International Convention of Asia Scholars 5"
(Kuala Lumpur Convention Centre, Malaysia) (2nd of August, 2007)
・'Transnational Social Space Based on Local Network: Migration of Malaysian Chinese and Papua New Guinean Chinese' at "Symposium on the Human Migration and Acculturturation in the Pacific Rim" (Rikkyo University Niiza campus) (14th of July, 2007)
・「人口移動と経済活動を通してみたマレーシア、サラワク州における華人の居住パターンの変化」日本文化人類学会第41回研究大会、 於・名古屋大学(2007.6.3)
(論文)
・「人の移動の交差点としてのコミュニティ―パプアニューギニアをめぐる華人の国際移動を事例として―」水上徹男編『環太平洋地域における人の移動と文化変容』ハーベスト社、204-219頁、2008年。
「サブ・エスニシティ研究にみる華人社会の共通性と多様性の把握」『華僑華人研究』(日本華僑華人学会)第4号、69-80頁。
・"Transnational Social Space Based on Local Network : Migration of Malaysian Chinese and Papua New Guinean Chinese." Center for Human Migration and Acculturation Studies (ed.) International Symposium on
the Human Migration and Acculturation in the Pacific Rim. Rikkyo University. pp. 11-23.2007.
(その他)・「パプアニューギニア、ニューアイルランド島の『混血チャイニーズ』」『民博通信』117号、29-31頁、2007.
■植村清加
(口頭発表)「つながりの民族誌:フランス、パリ郊外のマグレブ系移民の生活実践から」、分科会「第四世界考――フィールドはいかに記述できるのか」(研究代表者:内藤順子)、日本文化人類学会第41回研究大会、名古屋大学、2007年6月
(論文)「市民社会を生きる人びとのポストユートピア:フランス、マグレブ系移民の場合」、石塚道子・田沼幸子・冨山一郎編『ポスト・ユートピアの人類学』、人文書院、2008年、135-159頁
■國弘暁子
(論文)
・「『異装』が意味するもの:インド、グジャラート州におけるヒジュラの衣装と模倣に関する研究」、神奈川大学
COE『非文字資料研究の可能性-若手研究者研究成果論文集-』神奈川大学21世紀COEプログラム研究推
進会議、pp.153-164、2008年3月
・「『ベルダーシュ』-異性装から「異装」研究へ-」、神奈川大学COE『非文字資料研究』no.19、神奈川大学
21世COEプログラム研究推進会議、p.5、2008年3月
(口頭発表)
・「インド・グジャラート州に生きるヒジュラの象徴的コミュニティ形成」、慶応義塾大学人類学研究会、慶応義
塾三田大学院、2007年6月
・「性別(セックス)は誰が決めるのか:インド、グジャラート州に生きるヒジュラの同一性を巡る問題」分科会「第四世界考――フィールドはいかに記述できるのか」(研究代表者:内藤順子)、日本文化人類学会第41回研究大会、名古屋大学、2007年6月
・「ブリティッシュ・コロンビアにおける先住民と『ベルダーシュ』に関する調査報告」、神奈川大学21世紀COE
プログラム第4回全体研究会、2007年11月
■内藤順子
(口頭発表)
[分科会代表]「第四世界考:フィールドはいかに記述できるのか」、日本文化人類学会第41回研究大会、名古屋大学、2007年6月
・「貧困に架ける橋:<下からの>民族誌記述にむけて」分科会「第四世界考:フィールドはいかに記述できるのか」、日本文化人類学会第41回研究大会、名古屋大学、2007年6月
・[組織・司会]「資源」、若手研究者フォーラム夏期合宿、日本学術振興会・人文社会科学振興研究事業プロジェクト、於立命館大学、2007年7月
・「専門知がせめぎあうフィールド:<被開発者のしあわせ>を求めて」、関西学院大学COEワークショップ「多文化と幸せ」於関西学院大学、2007年9月
・「専門家になるということ:ローカルにねざしたプロジェクトから考える」、若手研究者フォーラム「人間」、日本学術振興会・人文社会科学振興研究事業プロジェクト、於静岡県伊東市、2007年11月
(論文、他)
・「<途上国>の相手に教える:チリにおける開発援助の現場から」、『アクション別フィールドワーク入門』亀井信孝、武田丈編、世界思想社、pp.111-124、2008年3月。
・“La vida cotidiana en La poblacion San Luis de Macul” : Una experiencia de terreno en el sector pobreza Ⅲ, Desarrollo Social Comuna Penalolen 2007-4, Municipalidad de Penalolen, Santiago de CHILE, pp.7-9, 2007(「スラム・サンルイス・デ・マクールの、とある1日:低所得者居住区における地域調査Ⅲ」)。
・“Nos solidarisamos? Una operacion de ‘Chile Solidario’: Una experiencia de terreno en el sector pobreza Ⅳ, Desarrollo Social Comuna Penalolen 2007-5, Municipalidad de Penalolen, Santiago de CHILE, pp.12-14, 2007(「連帯しているのは誰か?‘チリ国家連帯計画’の一考察:低所得者居住区における地域調査Ⅳ)。
・「資源」『SIMPATIA』日本学術振興会・人文社会科学振興研究事業プロジェクト・若手の会、pp.1-2,2008年3月。
■森田良成
(口頭発表)
・「出稼ぎ農民と廃品回収業―東インドネシア、ティモール島の事例」日本文化人類学会第41回研究大会、於名古屋大学、2007年6月2日。
・"Money and bottle: Peasant’s recycling work in the marginal world" 5th East Nusantara Conference on Language and Culture, 於インドネシア、クパン、ヌサ・チュンダナ大学、2007年8月1日。
・"Contemporarity of Poverty: Timorese peasant waste collectors and market economy" 5th International Convention of Asia Scholars, ライデン大学国際アジア研究所(International Institute for Asian Studies)等主催、於:マレーシア、クアラルンプール、クアラルンプール・コンベンション・センター、2007年8月5日。
(論文)
・「成功はいかに語られるか―インドネシア、西ティモールの廃品回収人の事例」、『年報人間科学』第29号、pp.57-75、2008年3月。
・「廃品回収人のクジ遊び」、『月刊みんぱく』2008年1月号、pp.22-23、2008年1月。
■山田香織
(論文)
・Der Sozialraum „Straße“ unter dem Aspekt von „Ordnung“ und „Dialog“―die Stadt München als Fallstudie.『日独研究論集』第2号、55-63頁、2007年9月。
・「フェラインの民族誌―ドイツ・バイエルン州のローカル・アソシエーション」博士論文(総合研究大学院大学提出)、2008年3月。
2006年度成果報告
今年度は代表者および分担者のうち5名が、また研究協力者6名の合計11名が本科研課題に関する国内外の現地調査を行った。それぞれが、グローバル化する世界のなかでの近代の徹底化を足もとから問い直そうとしており、とりわけ西欧型近代化の限界問題を考える格好の場所としてストリート(現象)にアプローチしている。
研究代表者関根康正は、イギリスの南アジア系移民社会の生活空間の構築を検討し、本科研が意識的に取り上げる二重の次元のストリートを探索する。トランスナショナルな交通としての移民現象という次元のストリートに加えて、そこでの場所としての物理的なストリート空間の役割を現地調査で解明を試みた。
研究分担者のトム・ギルは、イギリスでのホームレス問題からストリート現象にアプローチした。ロンドンでは「セイント・マンゴーズ」というNGOが運営しているホームレス施設を、リバプールでは、「ホームグラウンド」というホームレス青年用施設を、に1週間泊まりながら、オックスフォードでは、「オックスフォード・ナイト・シェルター」をそれぞれ体験的に調査した。イギリスの膨大なホームレス支援システムを三ヶ所の都市では草の根レベルで見ることができ、比較資料を蓄積でき大きな成果をあげられた。加藤政洋は沖縄那覇市において、戦後の那覇と大阪でほぼ同時期に形成された売春街を例に取り、比較検討した。どちらもいわゆる「風俗」街として存続しているという点で共通しているが、とくに後者ではコリアタウンの形成や新興宗教の拠点形成など、異他なる社会が共在するヘテロトピア的ストリート性を強めている。玉置育子は東京での化粧文化研究の資料収集後に、台北において化粧に関する現地調査を行った。まず、陽光社会福利基金会に出かけ、火傷患者のリハビリ及び社会復帰への支援について調査を行った。顔の皮膚の皮下組織までが破壊されケロイド状になっている患者に対して化粧を施すことで社会に復帰を支援している話しを中心に伺った。その後、台北医科大学において化粧品、情報の入手方法、購入場所、化粧に対する考え方等に関するインタビュー調査を行い成果をあげた。見られる場、みせる場であるストリートというアリーナの基礎資料を蓄積した。近森高明はパリ・ベルリンにて街路の利用形態を対象とする実地調査を行った。パリでは、歴史的建造物の作るストリートであるパサージュが、現在では高級ギャラリーや、移民によるインド料理街、服飾関連の問屋街など、種々に転用されている状況を調査した。ベルリンでは、W・ベンヤミンの描いた1900年前後のベルリンの地誌を現状と比較しつつ、大戦と冷戦の記憶を保存する博物館都市としての面と、記憶が抹消された都市という面が共存する、特異な都市的記憶の構成をストリートにおいて考察する資料を収集した。
6人の研究協力者は、それぞれの以下のような課題をめぐって現地調査を進めて基礎資料を収集できた。國弘暁子はインド・アフマダバード北方のバフチャラ女神字寺院においてヒジュラとストリートという課題に取り組んだ。森田良成は東インドネシア、西ティモールに滞在し、都市部へ出稼ぎに来て廃品回収業に従事する農民の仕事の様態からストリートにおいて村と町がどのような力で接しているのか、その原理を不器用な人々の「耐久力」に探った。朝日由実子は東南アジア地域におけるグローバル化の中でのローカリティの問題を検証すべく、マレーシア、カンボジアにて伝統的染織の実態に関してマクロな力とミクロな対応との両面調査を実施した。山田香織はドイツのミュンヘンにおいて規則によって強く秩序化されたストリートでの公私の狭間で起こる微細で微妙なストリート現象をめぐって実地調査した。木村自は多様な移住者が集まる上ビルマのトランスナショナルな社会空間タウンジーにおいて、雲南から流入した中国ムスリムが有する災因論が多宗教・多民族状況のなかでどのような影響をうけているのかについて調査を行った。内藤順子はチリのサンチャゴ市のスラムにおけるストリートの実態調査から、上からの施策立案を貫く貧困像と貧困者の生活実感からの実践とのズレが浮き彫りになったことは貴重な収穫であった。
このようにトランスナショナリズムと「ストリート現象」について多岐にわたる地域と主題が扱われ、初年度に相応しい実績の蓄積がなされたことにより、来年度以降の具体的展開に確実な足がかりを得た。
2006年度研究業績一覧(代表者・分担者・研究協力者)
研究代表者
関根康正
2006 『宗教紛争と差別の人類学』世界思想社.
2006 “Sacralisation of the Urban Footpath, with Special Reference to Pavement Shrines in Chennai City, South India”, Temenos: Nordic Journal of Comparative Religion,Vol.42 No.2, Souomen Uskontotieteellinen Seura [Finnish Society for the Study of Religion].
2007 「ストリートという縁辺で人類学する:『ストリートの人類学』の提唱」『民博通信』No.116(特集:ストリートの人類学・責任編集関根康正)国立民族学博物館.
2007 『排除する社会・受容する社会:現代ケガレ論』関根康正・新谷尚紀(編)、吉川弘文館.
2007 「『資本としての知識』から『資源としての知識』への視点の移行がもたらすもの」『資源人類学第3巻・知識資源の陰と陽』(仮題、C.ダニエルス編)弘文堂.
2007 『2002年~2005年度科学研究費補助金基盤研究(C)(2)「日本列島における<ケガレ観念>に
関する総合的研究」(代表関根康正)実績報告書』日本女子大学.
研究分担者
野村雅一
2007 (インタビュー)「ナースに役立つソーシャルスキル:身振りを知れば、コミュニケーションはもっと豊かになる」『ナースビーン』2007年1月号、メディカ出版、pp.52-59.
2007 (発表)「パフォーマーの仕事と観客の役割:舞台芸術の場合」、21世紀COEプログラム「総合テクス科学の構築」第11回国際研究集会「身体・儀礼テクストへの関係論的アプローチ」(於:名古屋大学)、2007年1月20日.
小田亮
2006 「構造主義」綾部恒雄編『文化人類学20の理論』弘文堂、pp.73-89.
2007 「現代社会の「個人化」と親密性の変容:個の代替不可能性と共同体の行方」『日本常民文化紀要』第24輯(印刷中).
2007 「呪術・憑依・ブリコラージュ:真正性の水準とアイデンティティ」阿部年晴・小田亮・近藤英俊(編)『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』風響社.
松田素二
2006 “Reconciliation and Redress in Post-colonial East Asia: Creativity of Narrative of Suffering”, New Currents in Asian Studies in/Between National Boundaries, Kyujanggak Institute for Korean Studies,Seoul National University, pp.60-85.
2006 「この本のできるまで」米山俊直著『米山俊直の仕事 人、ひとにあう むらの未来と世界の未来』 人文書館、pp.985-1008.
2006 「セルフの人類学に向けて:遍在する個人性の可能性」田中雅一・松田素二(編)『ミクロ人類学の実践』、世界思想社 、pp.380-405.
2007 “Overcoming of Predicament of Social Research”,A. Furukawa ed. Frontiers of Social Research: Japan and Beyond, Trans-Pacific Press, pp.1-18.
2007 「過去の傷はいかにして癒されるか被害を物語る力の可能性」棚瀬孝雄(編)『市民社会と責任』、有斐閣、pp.111−138.
2007 「グローバル化時代の人文学—アフリカからの挑戦」紀平英作(編)『グローバル化時代の人文学対話と寛容の知を求めて』上巻、京都大学学術出版会、pp.118‐148.
小馬徹
2006 「河童の異名、香亦坊・カワトンボをめぐる断章」『歴史と民俗』(神奈川大学日本常民研究所・平凡社)23:119-183.
2006 「魔術を魔術と呼ぶ魔術:鏡ならざる国の文化の技術」『神奈川大学評論』54:87-96.
2006 「鷹揚な河童と謹厳なハイエナ:超越的な時間とそれに抗する時間の物語」『人文研究』(神奈川大学人文学会)159:1-58.
2007 『放屁という覚醒』世織書房、iii+175頁(ペンネームO.呂陵で執筆).
2007 「『血液型信仰』批判再考:『人間』と『科学』の連接をめぐる試論」『人文研究』〈神奈川大学人文学会)160:105-143.
松本博之
2006 「里海」保全の可能性」(沿岸水域利用社会の変容―海洋保全と参加型開発)『民博通信』No.113、pp.20-21.
2007 「アラフラ海と真珠貝:世界システムの視点から」小長谷有紀・中里亜夫・藤田佳久(編)『林野・草原・水域』(アジアの歴史地理3)、朝倉書店、pp.208-225.
2007 「近代流通か、それとも贈与か:オーストラリア、トレス海峡諸島先住民社会の内旋的適応」岸上伸啓(編)『先住民による海洋資源の流通と管理』(基盤研究(A)研究成果報告書 課題番号15251012 代表岸上伸啓、国立民族学博物館教授)、pp.329-352.
2007 「奈良女子大学生の日常生活と奈良の景観、あるいは景観以前」松本博之(編)『奈良盆地における景観の再評価に関する基礎的研究』(基盤研究(B)研究成果報告書 課題番号16320113 代表松本博之、奈良女子大 学文学部教授)、pp.125-144.
棚橋訓
2006 (発表)「コメント:性同一性障害、トランス・ジェンダー」、第7回現代医療研究会(於:早稲田大学大隈タワー)、2006年12月.
2006 (発表)「ジェンダーに配慮した調査って何だ?:third gender研究から考える」、お茶の水女子大学21世紀COEプログラム「ジェンダー研究のフロンティア」院生・若手研究者支援ワークショップ「フィールドワークとジェンダー」(於:お茶の水女子大学)、2006年12月.
2007 「『再生産』の『テクノロジー』を理解(しようと)すること」『F-GENS ジャーナル』No.7、東京:お茶の水女子大学21世紀COEプログラム・ジェンダー研究のフロンティア、pp.102-103.
2007 「多文化共生の海を求めて:オセアニア史へのまなざしをめぐる若干の覚書」『人間発達研究』第29号、東京:お茶の水女子大学人間発達研究会、pp.1-12.
2007 『人類の歴史・地球の現在:文化人類学へのいざない』棚橋訓・本多俊和・三尾裕子(編著)、放送大学教育振興会、227p前後、2007年(印刷中).
2007 (発表)「コメント:第四世界考」分科会「第四世界考:フィールドはいかに記述できるのか」(代表:内藤順子)『日本文化人類学会第41回研究大会』(於:名古屋大学)、2007年6月3日.
鈴木裕之
2006 「アビジャン・レゲエと政治の関係:アルファ・ブロンディの歌詞に表現される政治的視点の変化」単著、『社会人類学年報』Vol.32 pp.25-56、東京都立大学社会人類学会.
トム・ギル
2007 「ニンビー現象と回避行動」関根康正・新谷尚紀(編)『排除する社会・受容する社会:現代ケガレ論』、吉川弘文館、pp.2-32.
加藤政洋
2006 『都市空間の地理学』加藤政洋・大城直樹(編)、ミネルヴァ書房.
2006 「歩くこと自体を愉しみに、そして少しのいかがわしさを」『建築と社会』、pp.20-21.
2006 (発表)「グローバル・シティの問題:大阪、裏返しの版図」、立命館大学国際言語文化研究所主催 連続講座「グローバリゼーションと植民地主義」(於:立命館大学衣笠キャンパス)、2006年11月18日.
玉置育子
2007 「もう一つの『ストリートを取り戻せ』の戦士たち」『民博通信』116号、p.9.
近森高明
2006 「北野映画における〈遊び〉と〈歩行〉のモティーフ:広場と砂浜のユートピア、橋と廊下のパサージュ」現代風俗研究会(編)『現代風俗研究会年報第28号 現代風俗 移動の風俗』、新宿書房、pp.150-74.
2007 『ベンヤミンの迷宮都市:都市のモダニティと陶酔経験』、世界思想社.
2007 「文化ヒエラルキーの形成:L.W.レヴィーン『ハイブラウ/ロウブラウ』」井上俊・伊藤公雄(編)『社会学ベーシックス 第7巻 ポピュラー文化』、世界思想社.
2007 「『陶酔』するストリート:フラヌール再考」『民博通信』116号.
研究協力者
阿部年晴
2007 「ケガレという解放? 不浄という呪縛?」阿部年晴・綾部真雄・新屋重彦(編)『辺縁のアジア <ケガレ>が問いかけるもの』明石書店、pp.274-329.
2007 「アフリカを語るための覚書」中部大学国際人間学研究所(編)『アリーナ』4:59-75.
2007 「後背地論から」阿部年晴・小田亮・近藤英俊(編)『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』風響社.
2007 (発表)「コメント:第四世界考」分科会「第四世界考:フィールドはいかに記述できるのか」(代表:内藤順子)『日本文化人類学会第41回研究大会』(於:名古屋大学)、2007年6月3日.
朝日由実子
2007 「カンボジア経済を牽引する繊維縫製産業の役割:都市の近代的工業と村落手工業の事例より」『アンコール遺跡を科学する』No.12、上智大学アンコール遺跡国際調査団、pp.44-55.
2007 (発表)「カンボジアにおける消費社会の到来と伝統染織の興隆:高級絹絣「ホール」を中心に」『日本文化人類学会第41回研究大会』(於:名古屋大学)、2007年6月2日.
植村清加
2006 (発表)「<場>の技法:フランス・パリのカフェに集まるチュニジア人たちの事例から」、分科会「日常性概念の再検討」(研究代表者:浮ヶ谷幸代)、日本文化人類学会第40回研究大会(於:東京大学)、2006年6月3日.
2007 「マグレブ系移民とフランス:<ローカリティ>のかたち」大阪大学21世紀COEプログラム、インターフェイ スの人文学研究報告書2004-2006、『第3巻 トランスナショナリティ研究』、pp.195-215.
2007 (発表)「つながりの民族誌:フランス、パリ郊外のマグレブ系移民の生活実践から」分科会「第四世界考:フィールドはいかに記述できるのか」(代表:内藤順子)『日本文化人類学会第41回研究大会』(於:名古屋大学)、2007年6月3日.
木村自
2006 「躊躇するアイデンティティ:台湾の多文化主義と回民(中国ムスリム)の生存戦略」日本台湾学会(編)『日本台湾学会第八回学術大会報告者論文集』、pp.14-23.
2006 「日本における台湾原住民族宗教研究のながれ:植民地期における「官」「学」両伝統の形成と軋轢」黄智慧著(木村自訳)『台湾原住民研究』第10号、pp.140-190.
2006 「衝撃と反応:1807年から1899年におけるキリスト教宣教師の活動と中国政府との軋轢」李暁杰口頭発表(2004年4月20日 於大阪大学21世紀COEプロジェクト「インターフェイスの人文学」トランスナショナリティ研究セミナー)の翻訳トランスクリプション・同プロジェクトウェブ上にて公開.
2006 (発表)“Negotiating the ‘Tradition’: Analysis of Islamic Reformism through Transformation of Funeral Rites among Chinese Muslims in Taiwan.” Society of East Anthropological Association Conference, East Asian Anthropology/Anthropology in East Asia .東亞人類學與人類學在東亞, at Chinese University Hong Kong、15th July 2006.
2006 (発表)「生成するトランスナショナル・ローカリティ:中レキ龍岡清真寺の調査などの報告」科研『中国ムスリムの宗教的・商業的ネットワークとイスラーム復興に関する学際的共同研究・平成18年度第1回調査報告会』(於:東京経済大学国分寺キャンパス第三研究センター2階321会議室)、2006年11月25日.
2007 (発表)「雲南回民起義による離散とその語られ方:ディアスポラ的離散とその後をめぐる一考察」地域研究コンソーシアム主催「次世代ワークショップ」企画『ディアスポラから世界を読む』(於:大阪経済法科大学アジア太平洋センター東京麻布台セミナーハウス)、2007年3月24日.
2007 (発表)「雲南回民のトランスナショナルな社会空間の形成とイスラーム」国立民族学博物館機関研究プロジェクト・国際シンポジウム『トランスボーダーの人類学・移民とともに変る地域と国家』(2007年3月26日~3月28日)(於:国立民族学博物館)、2007年3月26日.
國弘暁子
2006 (発表)「インド、グジャラート州におけるヒジュラの共同性の場に関する考察」『「地域」と「共同体」という概念の再考研究会』(於:成城大学)、2006年7月29日.
2007 「性とジェンダーをどうとらえるか:人類文化における普遍性と特殊性の-事例研究-」『非文字資料研究』No.15、神奈川大学21世紀COEプログラムNews Letter、pp.19-21.
2007 (発表)「性別(セックス)は誰が決めるのか:インド、グジャラート州に生きるヒジュラの同一性を巡る問題」分科会「第四世界考:フィールドはいかに記述できるのか」(代表:内藤順子)『日本文化人類学会第41回研究大会』(於:名古屋大学)、2007年6月3日
内藤順子
2006 “Desde punto de vista "Local": Una experiencia de terreno sector pobreza Ⅰ, Desarrollo Social Comuna Penalolen 2006-4, Municipalidad de Penalolen, Santiago de CHILE, pp.14-18,(「"ローカル"という視点:低所得者居住区における地域調査経験からⅠ」).
2006 “Que es "Pobreza"? : Una experiencia de terreno sector pobrezaⅡ, Desarrollo Social Comuna Penalolen 2006-5, Municipalidad de Penalolen, Santiago de CHILE,pp.7-11,(「"貧困"とはなにか:低所得者居住区における地域調査経験からⅡ」)
2007 (発表)「ローカル・辺境・国民国家幻想:受動的さしひかえの人類学にむけて」『「地域」と「共同体」という概念の再考研究会』(於:成城大学)、2007年3月21日.
2007(発表)「<貧困>に架ける橋:<下からの民族誌>記述にむけて」分科会「第四世界考:フィールドはいかに記述できるのか」(代表:内藤順子)『日本文化人類学会第41回研究大会』(於:名古屋大学)、2007年6月3日.
森田良成
2006 (発表)小泉潤二、栗本英世、植村清加、木村自、田沼幸子、中川理、松川恭子、森田良成○ 「トランスナショナル・グラフィティ」大阪大学21世紀COE「インターフェイスの人文学」国際シンポジウム(於:大阪大学中之島センター)、2006年10月15日.
2007 「周辺世界における農民と廃品回収業:東インドネシア、西ティモールの事例」、大阪大学21世紀COEプログラム、インターフェイスの人文学研究報告書2004-2006、第3巻『トランスナショナリティ研究』、pp.295-307.
2007 (発表)「農民と廃品回収業:東インドネシア、ティモール島の「アナ・ボトル」」『日本文化人類学会第41回研究大会』(於:名古屋大学)、2007年6月2日.
山田香織
2007 (発表)“Der Sozialraum "Strasse" unter dem Aspekt von "Ordnung" und "Dialog"― die Stadt Muenchenals Fallstudie Japanisch-Deutsches Forum des DAAD Tomo-no-kai 2007(ドイツ学術交流会友の会日独フォーラム2007)、 (於:東海大学セミナーハウス)、2007年3月24日.