

『民博通信』116号特集「ストリートの人類学」へのコメント
この特集はびっくりするほどよくできている。この「ストリートの人類学」研究会の前身である「<都市的なるもの>とは何か?」研究会との連続性もはっきりしており、月刊『みんぱく』2004年8月号の特集「ストリートのいま」と合わせて読むと、これまでこのストリート研究会がなにをやってきたか、だいたいわかるようにまとめられている。
●死とホームレス
今回の特集の論文とエッセイは、それぞれとてもおもしろい。しかしなんと言っても巻頭の関根論文が説得力があって、対象との「距離感」が絶妙だ。わけのわからないところがあるところも、またおもしろい。朝、散歩にでかけていったら、公園に「意地悪ベンチ」と関根さんが名付けているものがあるという話から始まる。そうしたものが存在することに驚いた。それは、ホームレスがそこに寝られないように、排除するためにわざわざ設けられたものらしい。そして、関根さんはホームレスを見てかれらは「どこへ向かって歩いているのか」と考える。それは「死に向かって」であり「自分もそこへ向かっていると悟らされる」と思考は進む。そのようなことを考えるのか、という意外性に加え、絶対的に空間を超えて死に思考がとんでゆくことに、すごさを感じた。それに啓発されてふと、死の後のことを考えた。
別のプロジェクトで私が現在取り組んでいるエイジングへの関心からいうと、人は社会のなかに生まれて、社会のなかで死んでいくから必ず死後があるのだが、ホームレスはそもそも社会から消えているから死後がないのであろうか。人の死とは何をもたらすのだろうか。人は死んでも、生者の記憶に残っている限り完全に消滅はしない。しかし、最近の日本で社会が人の死をどのように受け入れるのか考えてみると、死者と生者の関係がずいぶん変ってきているようだ。このごろ「直葬」という、お通夜も葬儀も告別式もせずに、直接火葬場に送るスタイルが増えているが、もしかするとホームレスはすべて直葬なのだろうか。はじめから消えているわけだから。こうして、「死に向かって」という発想から、いろいろと考えさせられることがある。ホームレスの立場から死を考えるということは、言い方が不謹慎であるが、興味深い、というか大事なことなのではないか。
死との関連から、空間的な問題として街の死、ストリートの死ということを考えた。それは廃墟であると思う。世界の都市のなかでは廃墟が生きている。ローマなどはさまざまな時代の廃墟の重なりの上にできあがっている。それがいま、廃墟も排除されようとしている。意地悪ベンチをつくるような人には、廃墟は都合が悪いところなのだろう。写真(特集の関根論文中)を見ても、廃墟じみたところにいる靴磨きの人たちの居場所が整序されようとしている。生産と消費、家庭と公共、男と女、子供と大人といったカテゴリーの区別が融解しはじめてすでに久しい。分化の論理によって構築されてきた西欧近代の限界といってよいのかもしれない。
ストリートとはという問いかけは、朝の路上についての関根論文からはじまる。文字通り路上という意味のストリートから次には、比喩的な現象の問題として把握されていく。それは小田論文で言及される騒乱の場としてのストリート、そこで起こる現象をモダニティと結びつける比喩としてのストリート(「ストリートを取り戻す」)という論点に移り、さらに「トランスナショナル」という問題へと展開していくわけだ。
●ストリートの場所性
そこでひとつだけいっておきたいのは、「ローカル」という問題だ。ストリートとは比喩にしても空間にしても道なのだが、それはいつも匿名で、固有な場所性はほとんど問題にしてきていなかった。(「都市の無意識」についての南氏の発表は例外。ホームページの要旨参照)ストリートの研究会でも、世界各地の話が扱われてきた。それらはたまたまそこをフィールドにしていて、どこであってもいい現象として考えられている。根本的な問題や現象をとらえるために、当該の場所が匿名にされることが、現在の人類学でも大半を占めている。そうした場合の「ローカルな場所」というのは、「グローバルのなかのローカルな場所」といっても、どこでもない、概念になってしまっている。しかし、ローカルとは本来は名前がある特定の場所である。固有性、歴史性、一回性の、その場でしかないものということが大事なのではないか。たしかにフィールドの話をしていても、一般論にしてしまうのでは、場所の固有性の、かけがえのなさはどこへいってしまうのか。人間におきかえるなら、「その人」だからこそというのはどうなってしまうのか。
今春、アメリカの人類学者テオドル・ベスターの『築地』という本が出た。本としては構成も章立ても破綻しているようで、筋道だっていない。ところが非常におもしろい。この本を読んで啓発されたのが、場所の問題だ。著者がとくに強調するのが、商取引における場所の重要性。築地は世界中から魚があつめられる水産業の中心であり、世界最大の、まさにトランスナショナルなグローバルなマーケットなのだ。ベスターは、これが築地という場所でずっと営まれていることが肝心で、移転したらまったく別のものになるであろうという。英語のマーケットは、マーケットとマーケットプレイス、日本語でいうと「しじょう」と「いちば」とふたつに区別できる意味があるが、築地の場合はそれらふたつは区別できず分かちがたいという。築地はグローバルな、為替相場とおなじスポット市場だ。しかし、このマーケットとしての築地(しじょう)を、物理的な築地という場所(いちば)と切り離して考えることはできない。空間や場所には文化的プロセスをとおして意味というものが付着している。これは金融市場でも同じである。モノが動かないわけだからどこにあってもいいようなものだが、ニューヨークのウォール街が絶対的な力を持ち、そこでなければならない。日本の古本のネット通販でも、取引相手が神田になっていると信用できそうに思う。それは、その場所の固有性があるからだろう。トランスナショナルということが盛んにいわれているが、この本では、トランスナショナルというテーマのなかにおけるローカルの重要性について指摘されている。「場所は、流動的なプロセスの真っ只中に、空間的(そして社会的)固定性という知覚を作り出すのである」(『築地』テオドル・ベスター著,木楽舎,2007年,58頁)と。すべての場所に、すべての空間にあてはまるわけではないが、名前のある場所として考えていくのも大事だと思う。これまで比喩的現象としてのストリートについてもずっと一般的な問題として扱ってきているので、個別の場所に徹底的にこだわる立場があってもよいのではないかとおもった。文字どおりの道とか路上のストリートと、比喩や現象としての広義のストリートとを結びつけるもの、それが場所性なのではないかと考えた。
近森論文に出てくるベンヤミンのパサージュ論でいえば、パサージュにも本来場所性がある。似たようなものはヨーロッパのあちこちにあるが、それぞれのパサージュには名前があって、アイデンティティ、伝統、人間関係がそこに付着している。そうしたことにこだわると、もうひとつの見方ができるのではないだろうか。場所へのこだわりを取っ払ってしまうと、わかりやすいものになってしまう。そもそも固有性とはわかりにくいものであり、だからこそ『築地』の著者ベスターも長年築地にこだわってきたのだろう。場所というのもわからないものなのだ。人類学の魅力とは、何かわからない「異物」に取り組んでいくなかで、その異物をくぐり抜けて一般的なところへ出て行くことなのではないか。それが人類学の方法であり課題だと思う。今日トランスナショナルの現象はたくさんあるわけだが、すべてがトランスナショナルなわけではない。トランスナショナルの地平まで出かけてそれを論じるためには、その前提となるナショナルやローカルをくぐり抜けていく必要がある。その点からいうと、加藤論文ではフーコーの規律社会からさらに先にいくドゥルーズの管理型社会というセキュリティについて言及している。監視カメラはどこにでもあるが、しかし場所によって付け方がいろいろとあるという、さすが地理学者は場所をおさえるものなのだと勉強になった。トランスナショナルも、こうしたところから考え直さなければならないのではないか。
●ストリートと「マナー化」
規律社会や管理社会ということから、最近もうひとつ関心を持っているのは「マナー化」ということだ。近ごろ東京あたりでは高校生のマナーが悪くなったとかいわれ、マナーが問題になっているらしい。それについてどう思うか、という日経新聞の取材を受けた。そのときに、そういえば近ごろは、マナーとはいうが、作法とはいわないなと思った。
ニュースでのマナー問題はじつは2007年の5月9日の北海道新聞の報道からはじまった。旭川からの支線で朝の通学時間に、高校生が126人積み残されてしまい、次の電車は1時間後とかになるからタクシーに分乗させたという出来事である。これは高校生が詰めて乗らないからいけないと、JRから校長にマナー指導の要望が出された。そうすると、たしかに高校生のマナーは悪いという投書が寄せられてきて、毎日新聞や読売新聞でも続報が掲載されたり、関東でも同様だといった騒ぎになった。ところがこの北海道新聞のはじめの報道では、列車は車両1両しかないうえに、この日はいつもより定員が10人少ない車両を使っていた事情が書かれていなかった。で、東京の人はこの記事を読んで高校生のマナーを問題にした。東京はどこにいっても人がいっぱいで、それで満員電車ならまだ仕方ないが、これは北海道の真ん中の話。北海道の原野のなかでぎゅうぎゅう詰めの電車に乗るなんて、ばかげている。電車を増便するのにお金がかかるのなら、北海道が一部負担するなりすべきではないのか。条件をととのえないで当事者である高校生の責任にしようとする。これは大人が、あるいは社会が悪い。フーコーのいう管理は外部からだが、いまマナー化でそれをもっと内面化することを求めている。これが自主的な自己管理という形で、ストリートのいろいろなところに出てきているように思う。日本の都会の満員電車は根本的に考えなければいけないことだと思う。満員電車は人間をモノとしてみるから詰め込めることができるわけで、知り合いだったら無理だろう。満員電車は人をモノ扱いすることで成り立っている。たぶん痴漢というのもそれと関連している。作法や礼儀というのは、顔が見える関係でお互いがわかったうえでの配慮の関係である。しかしマナーというのは顔の見えない関係が前提の、人間関係をどう取り繕うかということであろう。満員電車というこの日本独特の光景。そのなかでまさにポストモダンな新しい規律が求められている。それが都会ならまだしも、田舎の高校生に。彼らは互いに名前も顔も知っている間柄で車両1両に押し込められているそのしんどさに怒りを感じるのだ。意地悪ベンチや満員電車といった日本の都市の風景をうけて、何がどうなろうとしているのか見定めていきたい。
(野村雅一・京都外国語大学)
※民博共同研究「ストリートの人類学」2007年7月2日研究会2日目10時より
於:国立民族学博物館第3セミナー室にて開催された研究会発表をもとにしています
注記:同じタイトルで、すでに『UP』No. 384(2004年)に掲載されたエッセイがあります。ここに掲載したものは『UP』誌へ寄稿する際に、つまり2004年の初めに書いた第一草稿で、大幅改定・カット前の幻の原稿です。掲載されたエッセイのほぼ倍の長さで、余分なことも書いてありますから、記憶のためにここに置かせていただきます。
道はやはり面白いと最近つくづく思っている。ここでは武士道というような求道の意ではなく物理的な意味の道のことを言っている。道は確かに具体的な場でありながらその場を否定するように流動し、かつその動態によって場を不断に生成する、そういう過程の実現体のようである。そこは空間と時間の交差するダイナミックな地点(サイト)である。
このような道をめぐって興味深い文献が古今東西、文学から工学まで数多く産み出されてきたことは不思議ではない。いや、現実の重要性に比したら、むしろ少なすぎるかもしれない。道というとき海上の道は重要だが、今は陸上の道を考える。歴史を作った古代ローマの道や雄大なシルクロード、各地で人々の人生を支えた巡礼路、商都成立に寄与し今もその蓄積を享受できる近世の街道、そして個々人のミクロな記憶を堆積させる路地まで、大小さまざまな道が人間の歴史を形づくり、人間の心の襞に入り込んで息づいてきた。道は常に新しくしかも懐かしい。そこに私たちの来し方行く末が現出している。道は定住者にとって非日常であり、他界性を帯びる。ウカレビト、マレビトは道を通じて現れる。美しい原題Sinfonie der Strasseを持つヘルマン・シュライバーの『道の文化史:一つの交響曲』(岩波書店、1962(1959))を筆頭に「道の文化史」は私たちの心をなぜか躍らせる。支配の血流を鳥瞰する王の眼になれる気がするからだろうか。移動、流浪に身を任せるところからくる解放(開放)感のせいであろうか。あるいは、そこに刻み込まれた血と汗と涙の歴史絵巻という意味づけに一喜一憂するからだろうか。もう15年近く前のことだが「蜀の桟道を行く」と題する中国古代史の専門家小倉芳彦の講演で見た桟道跡のスライドはずっと心に残っている。それは、中国の幹線道路の馳道(ちどう)とはおよそ異なる、崖に沿って設けた横木(ねだ)の上に作られた小幅の道の残滓の写真であった。しかしその存在が確かに歴史を動かしたのだ。柳田国男の『明治大正史:世相篇』(講談社学術文庫、1993(1930))の中の街道の近代化を描いた見事な描写も印象深い。フェデリコ・フェリーニ監督の『道』(1954)は大道芸人の流浪とともに筋が展開していく。画面には常に道がある。中でも特に道からのカメラアングルが捉えたシーンが新鮮で他のストーリーが記憶から薄れても心に焼き付いていた。それは自分が常に定住者の側の眼で風景を見てきたことを、つまり道を客体としてしか見てこなかったことを異化してくれたものだ。途中で出会った尼僧が修道院も長い定住を許さないことを話すシーンも興味深い。土地への執着を産む同じ場所での長期定住は、神のことを考えることを減じ妨げるという理由である。にもかかわらず、流浪に関心を示す無邪気な尼僧に対して修道院長には流浪者を危険視する風が明らかに窺えるという皮肉な現実をも映像は暴露する。ジェルソミーナは神の始原の現れかも知れないのに。
同世代の音楽評論家平井玄の『路上のマテリアリズム:電脳都市の階級闘争』(社会評論社、1986)は道と反体制運動の深い繋がりを語る。都市の道と音楽が体制の圧力に抗する可能性にむけて描かれる(新しい「新しい社会運動」に通じるもの)。こうして道は体制と反体制のせめぎ合いの場となって「階級闘争」(資本家対労働者という単純な対立図式よりも広く複雑な意味で用いたい)を体現する。当然なことだが、大きな道は体制の権力の所産以外の何物でもない。ところで、土木工学は近代の道や橋を設計してきた。学部時代に私は土木工学の橋梁設計の授業で橋の設計をしたことがある。そのとき橋の自重と通過交通の移動荷重からまずは構造計算を緻密にするのだが、その結果の数値に最後のところで安全率γを掛けるのである。このγの数値は橋の形式によっていろいろ異なるが、崩壊過程のシミュレーションで仮説的に検証されて計算されるのだが、当然ながら安全性と経済性との間でいかに数値を抑え込むかということが現実的な課題になる。こういうことを学び自分でやってみて、橋はまさに人智の限界で設計されていたのだと、妙な感慨に耽ったものだ。だから鮮明に記憶に残った。当時私のまわりには道路景観を真剣に考えている人たちもいた。あのハイウェイの曲がり方はクロソイド曲線といってドライヴァーに優しく安全で運転しやすい設計になっていると教えられた(後で知ったが、日本では昭和27年が最初の導入だそうだ)。なんとヒューマンな学か。ところがそのハイウェイの路線決定はとなると地図上でかなり大胆に定規を使って行われていた(人間よりも地形の都合が優先されていたし、そこに政治もしばしば口出していた)。宇井純が公害問題をめぐって自主講座を東大本郷キャンパスで続けていた頃のことである。これは、なんとインヒューマンなことか。そういう学の姿勢にひっかかりを覚えて、私は土木工学の計画の発想、実践についていけなくなり、その道を進めなくなった。その当時、学科で交通計画を教えていた教官が「道路関係4公団民営化推進委員会」で委員となっている。あれから30年近くが経つが、アンリ・ルフェーブル流に言えば、その「空間の表象」の担い手の学であるという権力的体質の基本は、その装いを複雑化させてはいるが容易に変わるものではない。
道が面白いと書いてきた。実は、それは自分の研究の進展のなかで改めてゆっくりと再発見したことなのである。その過程を振り返ったとき、ふと一休の頓知話を思い出した。「はしを渡らずまんなかを渡って参りました」と言ってのけたのは、周知のとおり、門前に橋のある檀家の旦那の計略(一休の頓知を試すために法事の折に「このはしを渡ることかたく禁制なり」という立て札をたてた)を一蹴した一休である。凡人にはこのような咄嗟の機知はなかなか働かないが、それでも考え続けると当初は思いも寄らない気づきがそれなりに到来するものだ。そのことを私自身の都市空間での文化人類学的研究の実践過程のなかで体験し実感した。
1980年代は南インドの村落を、1990年代は同じく南インドの大都市チェンナイを舞台に研究を続けている。この二つの時期はちょうど冷戦構造の崩壊をはさんでおり、インド社会も急激な変化を被り、都市を通じて入ってくるグローバル化の嵐に席巻されていくのである。そのために都市で人類学することの必要性は高まるばかりなのだが、そのための方法的準備が整っていたわけではないから試行錯誤を続けるうちに数年が流れた。私のような異国の外者の粗い目では見れども見えずの状態が続いた。都市を依然として実体的なゾーンで見てしまう傾向があるのだ。それが私たちの空間感覚の近代的常識の呪縛であり、その隠蔽効果に屈していることだと分かってはいても適切に脱する方途が見えないのである。私にはもちろん才人一休の頓知はなかった。だが、じっと時間をかけて考えている内に、常識の隠蔽の打破の仕方に気づき始めた。都市はゾーンではなく道(ルート)でみなければならないという、ある意味当たり前のことを自覚したのである。それからは道をしみじみ見るようになり、やがて道というものには「まんなか(中央)」と「はし(端)」があり、その間で性質を大いに異にしていることがありありと見えてきたのだ。インドの道はその差異を中央の車道と両端の歩道において如実に示していた。見れども見えずだったのである。気づいてみれば、実に鮮明に見える。まさに一休の頓知の眼にすこし近づいた気分であった。あの頓知の凄さは、道が直ちに中央と端に分けて見えた一休の眼力にあると思う。一休は現象学的に言えばエポケーの実践者だった。車が突っ走る道の真ん中の様相を道一般の性質として「見る」という眼の荒さないし既成概念を括弧に入れて、道の端をのろのろ「歩く」者の眼つまり歩道空間の内部に立つ眼をも同時に持てたということになる。とにかく、こうして、車道と歩道を見分ける細やかな複数の視線の獲得が人類学的には不可欠で重要であると確信するに至った。気づいてみれば、大通りの端の歩道空間では、まさに「体制と反体制」のせめぎ合い、入り組みが日々実践されていたのである。都市空間を人類学的にアプローチしようと考え始めてすでに4、5年が経っていた。小さい世界で特技を発揮していた人類学は大都市というフィールドを前にして考えあぐねていた。しかし、私には上記の気づきが先に進む突破口になった。巨象をなでる盲目の集団の比喩のようなことをしていては埒があかない。巨象に立ち向かうには、象使いのように大都市の動的構造のつぼを押さなければならない。前者は都市を面的に実体的に把握しようとするが、後者では経脈の流れを感知しつぼという差異のポイントの連なりを刺激し、その作用・反作用を生成的な流れとして看取するのである。
80年代の村落での人類学的調査の主要な成果は、『ケガレの人類学』(東京大学出版会、1995)として刊行できたが、上述のような紆余曲折を経た、90年代以降の都市での人類学的調査の成果は、今年の2月に刊行された編著『<都市的なるもの>の現在』(東京大学出版会、2004)に盛り込まれた。二書の間でその主題は一見異なるように見えようが、<都市的なるもの>を問う人類学的考察は、『ケガレの人類学』の問題意識と思考から真っ直ぐと伸びてきたものである。そのことに触れながら、現代人類学の進むべき方向性と課題に示唆を与えてみたい。『<都市的なるもの>の現在』の考察もまた先人の幾多のそれぞれ孤高の理論的、思想的挑戦と蓄積に多くを負って可能になっている。アンリ・ルフェーブル(「都市革命」の希求)は直接の道標であった。ミチェル・フーコー、ミシェル・ド・セルトー、マルク・オジェ等の産出したひねりの入った概念群は確かに頼もしいフロントエンジンであり理論的同伴者であったが、独我論という批判はあたらない現象学的方法論の深みと岩田慶治の思想的理論(新アニミズム論)は間違いなく強力なバックエンジンであり、思考の基盤であった。というのも、フーコーのヘテロトピア(反-場)も、マルク・オジェの非-場や他性も、ド・セルトーの物語的行為の空間も、現象学的還元の方法(超越論的主観性など)や岩田人類学の視角である<地>の視点をもって吟味すると少しはその難解さが減じるように思われるからである。少なくとも私にはそれは不可能な読み方ではないと思われる。
他界という<地>がぐいっとこの世に突き出してきて<柄>としての生の秩序を攪乱するのが死である。死はヘテロトピア的現象の極北に位置する。というのも、死はこの世の出来事として確かに存在するにもかかわらず、死者という空間は死者の不在を告げる記号と化している点でヘテロトピアの特徴を最もよく体現するからである。そこは他界によって占領されている場所である。その他界の脅威にさらされた残された者たちが、この困難な事態に対処するためにいつの日か考案したのが死のケガレという表象であっただろう。世界各地でケガレ表現として様々な言葉が人々の口をついて出たし、対処の儀礼が発明された。そこではケガレの超越論的性格が露わになるし、ヘテロトピアとの近接が認められる。フーコーも確かに精神病院などと共に墓場をヘテロトピアのひとつにあげていた。
インドの大都市の動脈である幹線道路の歩道でも反-場(非-場かつ場)に遭遇できるというのが面白い。そこは、都市空間の内部に確かに存在するのに、外部性を帯びているという逆説を演じている。つまり、そこに境界すなわちヘテロトピアが現出している。それは反都市計画、反ユートピアの実践場となる。なぜそうなるか。基本的に都市空間は公私の別はあれ法的空間として配置されているはずだが、歩道という公的な法的空間は不法占拠者を招き入れやすい空隙になっている。川沿い、線路沿いも一般的に不法占拠が起こりやすい。そこに内なる合法空間と外なる不法空間とが接する境界が生まれる。このような境界性ゆえに、この7,8年は、インドの都市の歩道に魅せられてきた。実際、この境界としての歩道には異様な活気があり、都市計画の期待する意図を裏切るようにこの道路空間を人間化している。「歩道」という都市計画の配置する一義的意味づけを無視して、衣食住から、娯楽、信仰まであらゆる生活現象がそこでは発見できる。社会、政治、経済、宗教が「埋め込まれて」生きられていると言ってもいいだろう。歩道は耕作されて果樹園にも、囲い込まれて牛小屋にもなる。特に私が注目することになったのは、歩道上の祠、寺院である。これは見ていて飽きない、まさに庶民の総合的芸術作品と言える。大寺院は威圧的であるが、この「歩道寺院」は手作りの感触がして親しみが湧く。いわば、国宝級文化財の近づきがたさに対して民芸の力と美の実践場である。毎夏訪問すると必ず少しずつだが確実に進化していることも頼もしく面白い。コンクリートの祠に作られた、タイルが貼られた、電気がひかれた、闇に光る神名のボードがのった・・・とそのたびに小さな感嘆をもって眺める。そのミクロな変化には等身大の生活者の息吹が感じられる。とはいえ、これを小さき神だと思って甘く見てはいけない。不謹慎な行為は手痛い報復的懲罰を招きかねない。でもそんな懲罰の記憶も具体的個人とのやりとりを含んだ神話語りになっていて、やはり身の丈である。祠には賽銭が落ちる。神とみれば祈るインド人の宗教ハビトゥスのおかけで、人気が出てくるとその集金力は馬鹿にならない。だから、祠業という商売なのではないか、などと勘ぐる人も多い。友人のマドラス大学の教授もそう疑っている。しかし、もしそうだとしても、そのことはこの祠の神を祈る信仰心をいささかも減じはしない。妙に生々しい生活感覚と、それをひょいと飛び越えた真摯な信仰の次元とが同時に「埋め込まれた」民俗事象である。庶民の人生にはカネも必要、カミも必要なのである。
ところで、カネといえば、人類学者小馬徹は最近『カネと人生』(雄山閣2002年)という印象的なタイトルの編著において、人類学はきちんと顔の見える個人の(草の根の)カネ使用の様態を扱ってこなかったと、人類学の本義に立ち返る試みを行った。そこで小馬は、贈与論を貫く「マイナス利子の論理」(近年地域通貨やエコマネーに応用されているドイツの社会学者シルビオ=ゲゼルの考えで、手元に置いておくと時間と共に価値が減少していくので財の流通を促進することになる。レヴィ=ストロースの批判はあるが、人類学で言及されるモースのいう「贈与の霊」が贈答と返礼を促進したように。)に注目する。それは近代資本主義経済が当然視する「プラス利子の論理」とは根本的に異なる思考のパラダイムを産み出す論理である。前者の「マイナス利子」が気前よさとコミュニケーションの樹立を優先するのに対し、後者の「プラス利子」は個人単位の財の蓄積が重視されるというふうに真反対の価値を産む。その本の総説とあとがきで、R.L.スティーブンスの「瓶の妖鬼」のハワイ人の話(その瓶は取得すると望みをなんでも叶えてくれが、最後まで持っていたら地獄行きになるというもので、しかも買値よりも安く売らなければならない。その瓶で一旦は大いに望みを叶えた主人公だが、その後最愛の恋人が患う不治の病を救うために、流通してすでに限りなく貨幣の最小単位に近づいている瓶をハワイの最小通貨1セントで購入する。愛する人の救済に自分は地獄に行く覚悟で。恋人もまた同じ想いを持って、さらに安い貨幣のあるタヒチに移ってまで瓶を買う算段を考えて主人公を救おうとする、といった筋である。)を、ハイパーインフレーションの貨幣論として読んでしまう経済学的解釈を批判する。つまり、その話を、他者犠牲から自己犠牲への決死の大転換と読み、それが貨幣交換の地獄を超越するという美談として、すなわち自己犠牲の愛、倫理的交換が貨幣の冷酷さに逆転勝利する物語として経済学者が解釈しなければならなくなるのは、かれらが議論の前提として「プラス利子の論理」を手放さないからであるとする。このように経済学的読みを批判したあとで、小馬は別の解釈を人類学の立場から与える。持ち主に瓶の交換を強迫する「瓶の妖鬼」を「贈与の霊」のように読むならば、それは社会関係を創出する「埋め込まれた経済」の世界を成立させる力(マナ)と解釈できる。さらにその瓶は「マイナス利子」のカネを象徴しているのであって、この話はしたがって、我々に馴染み成ってしまっている「プラス利子」のカネの常識(この話にハイパーインフレーションの寓意を読み取る見方)をむしろしたたかに批判しているものなのだというのである。「マイナス利子の論理」という自己犠牲の美学よりも卑近な生活の必要に支えられたミクロな社会関係の創設という民俗社会に埋め込まれていた現実的で持続的な交換実践が、「プラス利子の論理」からの立論では隠されてしまう、と鋭く指摘する。経済学者が事態の外側に立って自己の有する近代的価値論理で主人公たちの行動を説明する傾向があるのに対して、人類学者小馬は、生きられている主人公の場所に寄り添おうとする。絶大な自己犠牲という奇跡的倫理によってではなく、常人のできる範囲のささやかな自己犠牲とその回避、ときには他者犠牲をも折り混ぜたブリコラージュによって現実の生活は切り開かれてきたことを小馬は見逃さないのである。この「瓶の妖鬼」をめぐる解釈闘争の紹介は、経済学者を批判するための議論ではない。その意図は、私たち自身が今日「マイナス利子の論理」をすっかり抑圧してしまう思考パラダイムに囚われていることをこそ自省したいためである。
今日の社会で、この「マイナス利子の論理」に注目する必要を説く事態を私なりに敷衍して言い替えると、境界を内在的に思考することが論理的に招来することになる「象徴的思考」のしぶとい命脈の注視、復権のことであろうと考える。少し説明しよう。「プラス利子の論理」に侵された現代人は、世の中の事象をなんでも個体の総和として世界を捉える現世的思考の内部で捉える強い傾向を持つ。なんでも意識化できる要素の換喩的関係で説明しようとするのである。言い替えれば、近代に大衆化し支配的になる超越的認識は境界事象をも神の眼をもっているかのようにその外部から説明する「機能的思考」に陥ってしまう。外部と接しているはずの境界までも「周辺」という言葉に押し込んで、そうするのである。境界に置かれない内部事象はこの説明の仕方でもぼろは出にくいが、境界事象ではそうはいかない。ここに「象徴的思考」を再度召喚する理由がある。機能的思考に対して象徴的思考では隠喩が主導し、「マクロコスモスとミクロコスモスの照応」ということが枢要になる。コスモスは現世的思考が捉えられるものだけで終わらず、必ずや超自然的、他界的な存在様態を含み込むA(柄)と〜A(地)との全体性で構築されることになる。それゆえに自ずからその全体が真正の境界的思考となる(ここでは、〜Aを既知の範疇のようにベン図を描いてしまうような、真正でないリーチ的境界性理論は排除される)。フーコーならば、「プラス利子の論理」の世界をユートピアと、「マイナス利子の論理」の世界をヘテロトピアと名指して区別しただろう。岩田慶治ならば、前者は<柄>の視点、後者が<地>の視点としたであろう。<地>は<柄>を存在させるが、同時にその<柄>の不在を暗示し続ける。まさにヘテロトピアの特徴である。
今や近代以降に支配的になった機能的思考の弊害が極大化している。都市はそのような社会空間の集中点であり、そこを拠点に現代社会ではオジェの言う意味での「他性」を考慮できない自己増大を求めるユートピア的なイデオロギー的対立が激化している。そこでは、だれもが機能的な中心化思考を手放さないから、中心からの超越的認識でなんでも説明しようとする。そこでは内なる端を意味する「周辺」という社会空間の皮膚の一面的規定がなされるばかりで、皮膚そのものの場に立つ視点はけして出てこない。現実の皮膚という場の実践、つまり内外が接する「境界」の場の代謝、呼吸の事実を抑圧するものだから、内閉したアイデンティティを融解させる道筋は絶たれてしまう。皮膚そのものの場に立つ視点とは、<抑圧された「周辺」こそが「境界」になれる>という逆転の、徹底した受動の立場への移行である。「境界」という現実的事実に立ち返れば、縦横に呼吸して(内外を横断する気流による代謝を通じて)、<柄>と<地>の双方を勘案する象徴的思考ないし隠喩的思考を取らざるを得ないことが自明になる。この特長に注目することこそが、小馬の主張とも重なり、今日において人類学的視角の中心的効果、効用なのである。それをはずしては、人類学的思考とはもはや言えまい。
ケガレから都市の歩道まで、そこに貫かれている対象選択と現象解釈とが提起している枢要な問題は、中心から脱中心への視点の移行(「周辺」とされたものが「境界」へと読み替えられること)が体現する思考のパラダイム・シフトの必要である。これは近代を前近代の巻き戻せといっているのではない。近代のパラダイムの覆った権力空間の中に、前近代のパラダイムを要求する(そのパラダイムで見ないと正しく記述できない)現象が現実に存在しているということである。したがって、これは提言ではなく、事実描写である。本質主義を恐怖するあまりなんでも相対化してしまう腰を抜かしたポストモダニティという語を遠ざけて、「他性」に配慮するスーパーモダニティという語にこだわるオジェの「同時代世界の人類学」は、我田引水に思われようが、上記の思考のパラダイム・シフトというねばり腰の必要性を説く態度と同じ経緯をもつものであろうと、想像している。
繰り返すことになるが、「不浄」と「ケガレ」とを峻別する必要を力説した『ケガレの人類学』以来の問題意識と確信をもって、<都市的なるもの>とは何か、と問う共同の試みを行ってみた産物が、『<都市的なるもの>の現在』という作品かつテクストである。その結果、大変興味深いことに、<都市的なるもの>について考えるとき、ストリート・サブカルチャーへの注視が不可欠であることが強く確認できた。道は「フローの空間」の象徴かつ現実体である。そのフローという「偶然」に身を任せることで自らの生きる「必然」の拠点を構築し続けるという逆転の生活実践は、スラム住民やホームレスのような特殊な人々についてのことではもはやない。それは私たち自身の現在の姿であると、ありありと気づけるようになった。そういう人間の生の深奥(死ぬべき生)に触れた<生の奥行きの穿ち>の有り様が見えてきた。定住にこだわる私たちもまた実は皆ウカレビトなのである。
こうして、ベンヤミンの言う「都市の遊歩者(フラヌール)」というテーゼの意義を、改めて強い実感をもって噛みしめることができるようにもなった。ここからが研究の新たな展開の始まりに思われてきた。